宇野浩二
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兄・崎太郎[61]を神戸の本多家から引き取った。

葛西善蔵と同居していたハナが訪ねてきて、自らを「おせい」と名乗り葛西の滞在している日光に行くといった。[21]


1925年(大正14年) 34歳

八重と神戸・大阪・奈良・熱海を旅行した。

八重と山中・山代・和倉・赤倉・別所温泉を旅行した。


1926年(大正15年・昭和元年) 35歳

里見ク・菊池寛・佐藤春夫とともに報知新聞の客員となり長編小説を執筆することになって、以後約1年間月給が入るようになった。[62]

八重と東山温泉(ここで愛人と逗留していた八重の叔母に会った。『思ひ川』参照)で落ち合って塩原温泉まで旅行した。

八重と修善寺・湯ヶ島・伊東を旅行、この直後「新住吉」の抱え芸者が逃亡し経営が悪化した。

母と箱根熱海を旅行、帰途母と別れて鵠沼の芥川龍之介を訪ねた。[63]

八重と湯河原を旅行した。


1927年(昭和2年) 36歳

『日曜日あるひは小説の鬼』を雑誌「新潮」に発表(浩二を文学の鬼と呼称するのはこの作品にも由来している)。

しばしば田端に芥川龍之介を訪ねた。

精神に変調をきたし[64]、母や八重、永瀬義郎などに伴われて箱根に静養に行く(途中、小田原の料理屋で突然薔薇の花を食べた)が数日で帰京した。

広津和郎・芥川龍之介・永瀬義郎らの配慮で斎藤茂吉[65]の紹介を得て王子の小峰病院に入院した。(70日入院。入院中に芥川龍之介が自殺した。[66]


1928年(昭和3年) 37歳

静養のため母と箱根に旅行、小田原に帰郷していた牧野信一[67]としきりに会った。

病気中引き上げていた菊富士ホテルに再度仕事場をもった。

八重が新たに旦那[68]をもったため不和になり絶交した。


1929年(昭和4年) 38歳

脳貧血をおこし重態となり再び小峰病院に入院した。(約10ヶ月入院。入院中にキヌに玉子と隠し子守道のことを告白した。)[69]


1930年(昭和5年) 39歳

明治・大正の日本文学を耽読し、しきりに童話を執筆した。

東京京橋木挽町の直木三十五の家で偶然八重に再会し、八重が旦那持ちのまま交際が復活した。[70]


1931年(昭和6年) 40歳

しきりに童話を執筆した。

徳田秋声の還暦祝賀会に出席した。

この頃から頻繁に八重と日記の交換や逢引を重ねるようになった。八重が旦那の援助を得て九段で茶屋「三楽」の経営を始めた。[71]


1932年(昭和7年) 41歳

妻キヌの希望で玉子との間にできた守道を引き取った。

画家小出楢重[72]をモデルにした病後第1作『枯木のある風景』を『改造』の記者・上林暁(本名・徳広厳城)[73]に渡したが、従来の饒舌な文体が一変して枯れた作風になった。


1933年(昭和8年) 42歳

守道とともに千葉県鵜原の別荘にいた高鳥正を訪ね、小湊で川端康成夫妻と会食、その後守道と筑波山を周遊した。

嘉村磯多[74]中山義秀・川崎長太郎・田畑修一郎らが浩二を囲んで「最近の仕事を祝う会」(後の「日曜会」)を始めた。

広津和郎とともに「文学界」同人となった。

嘉村磯多の病床を見舞った。

嘉村磯多が結核性腹膜炎で病死した。


1934年(昭和9年) 43歳

直木三十五が肺結核で病死した。(浩二は病床にあって告別式に参列できなかった。)

島崎藤村徳田秋聲・近松秋江・広津和郎・佐藤春夫らとともに内務省警保局松本学の主宰する文芸懇話会に参加、島木健作の『獄』をめぐり文芸懇話会賞問題がおきた。

所得税申告の件で厩橋税務署長であった長沼弘毅と知り合い、以後親交を結んだ。

広津和郎・横光利一小林秀雄らと『嘉村磯多全集』を編集した。(実際上の編集はほとんど全て浩二がおこなった。)

諏訪(原とみと再会した[75])・下呂・飛騨高山を旅行した。

しきりに評論・随想風の文章を発表した。


1935年(昭和10年) 44歳

母・キョウが死去した。[36]


1936年(昭和11年) 45歳

牧野信一が小田原の家で縊死した。

東京浅草稲荷町(現在の台東区松が谷)の広大寺に先祖代々の墓を建立し母の骨を納めた。(母の喉仏は大阪一心寺の骨仏にした。)


1937年(昭和12年) 46歳

第一書房の中山省三郎と交渉して『牧野信一全集』の編集に尽力した。

斎藤茂吉らとともに長野県富士見島木赤彦建碑式に参列した。

鍋井克之中川紀元と「三楽」でしばしば三人の会を開いた。八重とは東京吉祥寺の「いなか」などで逢引を重ねた。


1938年(昭和13年) 47歳

芥川賞選考委員に選ばれた。[76]

治安維持法違反で拘留後の江口渙に原稿料を得させるために宇野浩二名で童話の要約を執筆させた。

天王寺中学の同窓である坂口常三郎をモデルにした『楽世家等』を発表、後にモデル問題となった。

評伝『ゴオゴリ』を発刊。


1939年(昭和14年) 48歳

近松秋江の病気療養費を調達するために徳田秋声・正宗白鳥上司小剣らと『近松秋江傑作選集』を編集した。(実際上の編集はほとんど全て浩二がおこなった。)

妻の異母妹・鈴木コウをモデルにした『器用貧乏』を発表。


1940年(昭和15年) 49歳

小田原で牧野信一の墓参をし川崎長太郎とともに箱根強羅に中山義秀を訪ねた。

菊池寛賞を受賞した。


1941年(昭和16年) 50歳

甲府に行き湯村温泉で熊王徳平らに会った。

加能作次郎が死去し告別式に参列した。


1942年(昭和17年) 51歳

田畑修一郎・中山義秀とともに箱根に旅行、小田原で川崎長太郎と会い牧野信一の墓参をした。

上高地に旅行、松本東京帝大卒の北沢喜代治を訪ね、浅間温泉で座談会に参加した。

「日曜会」の旅行で川崎長太郎・倉橋禰一・渋川驍・高鳥正・石光葆らと箱根底倉温泉に行った。

この頃、大阪を拠点にしばしば大和各地を旅行した。


1943年(昭和18年) 52歳

「日曜会」10周年記念会を東京築地で開き、田畑修一郎・中野重治徳永直らが参加した。

中山義秀従軍歓送会に出席した。

田畑修一郎が盛岡の旅行先で急性盲腸炎で死去した。

守道が学徒出陣で駒場の近衛輜重兵第二連隊に入隊した。


1944年(昭和19年) 53歳

兄・崎太郎が死去した。

山梨県増穂町に行って、治安維持法違反容疑で捕らえられ釈放されていた熊王徳平に会った。

盛岡に佐藤善一を訪ねた。

香川県豊浜にある船舶兵幹部候補生隊の学校に入学する守道を東京駅で見送った。

妻とともに長野県松本に行き北沢喜代治らに会った。

宇野家伝来の日本刀を改装した軍刀を守道に渡すために香川県豊浜へ行った。

中山義秀とともに横須賀の海軍運輸部に荷物運搬夫として徴用されていた川崎長太郎を訪ねた。

妻が隣組の防空訓練や配給品受取・家事に忙殺され心臓弁膜症を病んだ。


1945年(昭和20年) 54歳

鈴木コウが空襲で焼け出されて訪ねてきた。

兄・崎太郎の喉仏を一心寺の骨仏に納めるため大阪に行き、織田作之助鍋井克之藤沢桓夫と会った。

北沢喜代治の紹介で妻とともに長野県松本郊外(東筑摩郡島立村蛇原)の農家の2階に疎開、妻の病気のため配給品の受け取りや買出しなどに奔走した。[77]

守道が復員し、青木富子との結婚について相談された。

北沢喜代治の紹介で松本市内(松本市今町の女鳥羽橋近辺)の造り酒屋(「夫婦松」の醸造元)の離れに転居した。

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