宇野浩二
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銀座の台湾喫茶店女給星野玉子[53]と知り合った。
1921年(大正10年) 30歳
人間社の経営に失敗した直木三十五[21]とともに下諏訪に旅行し鮎子に会った。
広島晃甫とともに東京青山の佐藤春夫の家を訪ねた。[21]
玉子とともに伊香保(大仁?)に旅行した。このとき、見送りに来た玉子の祖母(?)・たもつに会った。[54]
母・妻が大阪へ旅行している間、玉子を自宅に呼び寄せた。
玉子から妊娠を告げられた後は玉子の家を訪れることが間遠になっていった。
ドイツから寄贈された大洋丸で里見ク・久米正雄[55]・直木三十五・加能作次郎・佐佐木茂索と横浜から京都・小倉・福岡などを経由して長崎へ旅行、途中神戸から片岡鉄兵が参加した。[21]
この頃、しばしば芥川龍之介と会い、食事などをともにした。
この頃、しばしば鵠沼の東屋に出かけ、里見ク・久米正雄・芥川龍之介・佐藤春夫・佐々木茂索・大杉栄らと同宿した。[56]近くに借家住まいをしていた江口渙・中村武羅夫を訪ねた。
1922年(大正11年) 31歳
『恋愛合戦』の装丁を依頼するために東京道玄坂の佐藤春夫の家を訪ねた。[21]
玉子が東京渋谷道玄坂下の家で長男守道を出産、祖母が自宅で鶏を飼って地玉子を販売する一方、玉子はカフェを開業した。
村上八重(1949年)
1923年(大正12年) 32歳
直木三十五とともに行った東京富士見町の待合で芸者村上八重[57]と知り合った。
直木三十五とともに下諏訪に旅行し鮎子に会った。
東京本郷菊坂の菊富士ホテルに仕事場をもち[58]、八重と折半で買った道具類を置いてしばしば八重と会い、高田保・三宅周太郎・増富平蔵・石川淳・田中純・広津和郎・直木三十五らと交わった。[21]
『子を貸し屋』を雑誌「太陽」に発表。
時事新報の文芸欄の談話を取材に来た川崎長太郎と菊富士ホテルで会い、以後しばしば訪ねてくるようになった。[21]
谷崎精二の紹介で田畑修一郎が早稲田大学の座談会への出席を依頼しに訪れ、以後しばしば訪ねてくるようになった。[21]
関東大震災に被災し[59]寛永寺境内・田端の室生犀星宅に避難する。被災した中川嘉蔵が訪ねてきた。[60]
浩二の家を出て本多義知の子・重造宅などに寄宿していた公吉が大阪へ帰った。
牧野信一が中戸川吉二とともに雑誌「随筆」の原稿を依頼に訪れた。[21]
名古屋で八重と待ち合わせ京都・大阪・奈良を旅行した。
玉子・たもつ・守道は東京祐天寺に転居、玉子のカフェ勤めで生活した。
1924年(大正13年) 33歳
薄田泣菫に会うために芥川龍之介と大阪に旅行した。
八重が東京富士見町に新築した芸者屋「新住吉」に仕事部屋をもち、通うようになった。
東京上野桜木町内の永瀬義郎の近所に転居、旧居には葛西善蔵の紹介で牧野信一が移ってきた。
八重と伊香保・榛名山・四万温泉・磯部温泉を旅行した。
葛西善蔵に金策を相談され、葛西の原稿料を前借するために葛西とともに世紀社を訪ねた。[21]
兄・崎太郎[61]を神戸の本多家から引き取った。
葛西善蔵と同居していたハナが訪ねてきて、自らを「おせい」と名乗り葛西の滞在している日光に行くといった。[21]
1925年(大正14年) 34歳
八重と神戸・大阪・奈良・熱海を旅行した。
八重と山中・山代・和倉・赤倉・別所温泉を旅行した。
1926年(大正15年・昭和元年) 35歳
里見ク・菊池寛・佐藤春夫とともに報知新聞の客員となり長編小説を執筆することになって、以後約1年間月給が入るようになった。[62]
八重と東山温泉(ここで愛人と逗留していた八重の叔母に会った。『思ひ川』参照)で落ち合って塩原温泉まで旅行した。
八重と修善寺・湯ヶ島・伊東を旅行、この直後「新住吉」の抱え芸者が逃亡し経営が悪化した。
母と箱根・熱海を旅行、帰途母と別れて鵠沼の芥川龍之介を訪ねた。[63]
八重と湯河原を旅行した。
1927年(昭和2年) 36歳
『日曜日あるひは小説の鬼』を雑誌「新潮」に発表(浩二を文学の鬼と呼称するのはこの作品にも由来している)。
しばしば田端に芥川龍之介を訪ねた。
精神に変調をきたし[64]、母や八重、永瀬義郎などに伴われて箱根に静養に行く(途中、小田原の料理屋で突然薔薇の花を食べた)が数日で帰京した。
広津和郎・芥川龍之介・永瀬義郎らの配慮で斎藤茂吉[65]の紹介を得て王子の小峰病院に入院した。(70日入院。入院中に芥川龍之介が自殺した。[66])
1928年(昭和3年) 37歳
静養のため母と箱根に旅行、小田原に帰郷していた牧野信一[67]としきりに会った。
病気中引き上げていた菊富士ホテルに再度仕事場をもった。
八重が新たに旦那[68]をもったため不和になり絶交した。
1929年(昭和4年) 38歳
脳貧血をおこし重態となり再び小峰病院に入院した。(約10ヶ月入院。入院中にキヌに玉子と隠し子守道のことを告白した。)[69]
1930年(昭和5年) 39歳
明治・大正の日本文学を耽読し、しきりに童話を執筆した。
東京京橋木挽町の直木三十五の家で偶然八重に再会し、八重が旦那持ちのまま交際が復活した。[70]
1931年(昭和6年) 40歳
しきりに童話を執筆した。
徳田秋声の還暦祝賀会に出席した。
この頃から頻繁に八重と日記の交換や逢引を重ねるようになった。八重が旦那の援助を得て九段で茶屋「三楽」の経営を始めた。[71]
1932年(昭和7年) 41歳
妻キヌの希望で玉子との間にできた守道を引き取った。
画家小出楢重[72]をモデルにした病後第1作『枯木のある風景』を『改造』の記者・上林暁(本名・徳広厳城)[73]に渡したが、従来の饒舌な文体が一変して枯れた作風になった。
1933年(昭和8年) 42歳
守道とともに千葉県鵜原の別荘にいた高鳥正を訪ね、小湊で川端康成夫妻と会食、その後守道と筑波山を周遊した。
嘉村磯多[74]・中山義秀・川崎長太郎・田畑修一郎らが浩二を囲んで「最近の仕事を祝う会」(後の「日曜会」)を始めた。
広津和郎とともに「文学界」同人となった。
嘉村磯多の病床を見舞った。
嘉村磯多が結核性腹膜炎で病死した。
1934年(昭和9年) 43歳
直木三十五が肺結核で病死した。(浩二は病床にあって告別式に参列できなかった。)
島崎藤村・徳田秋聲・近松秋江・広津和郎・佐藤春夫らとともに内務省警保局長松本学の主宰する文芸懇話会に参加、島木健作の『獄』をめぐり文芸懇話会賞問題がおきた。
所得税申告の件で厩橋税務署長であった長沼弘毅と知り合い、以後親交を結んだ。
広津和郎・横光利一・小林秀雄らと『嘉村磯多全集』を編集した。(実際上の編集はほとんど全て浩二がおこなった。)
諏訪(原とみと再会した[75])・下呂・飛騨高山を旅行した。
しきりに評論・随想風の文章を発表した。
1935年(昭和10年) 44歳
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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