宇野浩二
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また原稿用紙9枚分の文章を執筆するのに200字詰め原稿用紙を300枚費やしたり、編集者に渡した原稿を、速達や電報を使って何度も修正を要求する等、「文学の鬼」と称された[4]
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伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2013年3月)


1891年明治24年)0歳

福岡県師範学校の教員であった父・六三郎と母・キョウの次男として福岡市湊町に生まれる。[5]祖父の格(善三郎より改める)は大坂町奉行所与力であった。先祖は滋野氏で、その後は海野氏を名乗っていたが、いつからか宇野と称した。


1894年(明治27年) 3歳

父・六三郎が脳溢血で急死[6]

父の従弟・本多義知(当時、明治燐寸会社社長)を頼って神戸市湊町へ移った。


1895年(明治28年) 5歳

母が六三郎の遺産を六三郎の姉の夫・入江憲治(大阪伊丹在の大庄屋)に預託することとなり本多家に居づらくなったので大阪市東区糸屋町一丁目に移り祖母・里勢も同居した。

母はここで志村新子[7]という若い女性や軍用商人、新派俳優松平龍太郎・秋月桂太郎などと交際し清元・三味線を覚え、浩二もしばしば芝居小屋に出入りするようになった。母の兄・福岡正朔も一時居候した


1897年(明治30年) 6歳

陸軍偕行社付属尋常高等小学校に入学、3年上級に江口渙がいた。[8]


1899年(明治32年) 8歳

入江家の破産で遺産を失い[9]、一時本多家に身を寄せるが、やがて母の兄・福岡正朔を頼って花柳界に近い大阪市南区宗右衛門町の通称十軒路地に移った。この頃新派俳優秋月桂太郎が下宿したこともあり、しばしば道頓堀で芝居見物をした。[10]


1900年(明治33年) 9歳

母は福岡家に浩二と祖母里勢を預け、兄の崎太郎は本多家に預けなおして、自らは大和高市郡天満村(現・大和高田市)の根成柿(ねなりがき)にある遠い親戚に身を寄せ、近所の料理屋(中川政蔵の経営する「紺嘉」)で三味線や踊りを教えて生活した。


1901年(明治34年) 10歳

育英尋常高等小学校に転校。[11]十軒路地に住んでいた周旋屋の子宮本卯三郎(姉の八重子が浩二の初恋の相手[12]か?)や1年下級で後に横綱大錦卯一郎となる細川卯一郎、1年上級の保高徳蔵と交友関係をもつ。


1904年(明治37年) 13歳

本多家の学資援助で大阪府立天王寺中学校(天王寺高等学校の前身校)に入学。同級生に保高徳蔵、日本画家・青木大乗(青木精一郎。浩二が同性愛的な好意を寄せたか?)[13]、後に横綱大錦卯一郎となる細川卯一郎、1年上級に画家・鍋井克之がいた。

のち校友会雑誌『桃陰』に作品(詩『ほのお』散文『故郷』『自然の法則』)を投稿した。


1906年(明治39年) 15歳

本多義知から商業学校への転校を命じられるが編入試験の前日に福岡家に逃げ帰り天王寺中学に通い続けた。

脚気が発病する。


1909年(明治42年) 18歳

天王寺中学卒業。

田山花袋の『田舎教師』の影響をうけ青木大乗(青木精一郎)とともに大阪府中河内郡若江村の小学校に代用教員として赴任。[14]

脚気が再発したため教員を辞めて大和天満村の母のもとに身を寄せ[15]、中川政蔵の弟・中川嘉蔵[16]と知り合う。朝鮮の京城にいた保高徳蔵と購入した文芸雑誌を送り合う。


1910年(明治43年) 19歳

福岡家から大和天満村に呼び寄せた祖母が死去。[17]

本多義知の子・一太郎から上級校進学のための資金援助が約束され、[18]東京赤坂霊南坂にあった本多義知の子・重造宅に寄宿[19]早稲田大学英文学科予科に入学。同級生に高田保三上於菟吉沢田正二郎・増田篤夫、1年上級に今井白楊広津和郎谷崎精二、1年下級に保高徳蔵・直木三十五田中純青野季吉がいた。

浩二を頼り朝鮮から上京してきた保高徳蔵と水郷めぐりで利根川に旅行した。

本多家を出て東京雑司が谷の借家で自炊生活を始める。斎藤青羽・三上於菟吉・浦田芳朗らがしばしば訪れ、保高徳蔵も一時ここに同居した。[20]近所に住む秋田雨雀と知り合う。[21]

東京牛込若松町の下宿三州館(三枡館?)、さら近くの若松館に転居した。


1911年(明治44年) 20歳

東京牛込白銀町の下宿都築に転居、同じ下宿に三上於菟吉・泉斜汀夫妻がおり、近松秋江・斎藤青羽・三富朽葉・今井白楊・浦田芳朗・片岡鉄兵らが訪れてきた。

大阪に帰省し、青木大乗(青木精一郎)の紹介で渡瀬淳子を知った。[22]


1912年(明治45年・大正元年) 21歳

青木大乗(青木精一郎)の父の出資で三上於菟吉・斎藤青羽・今井白楊・増田篤夫らと大阪で雑誌『しれえね』発刊、風俗紊乱の理由[23]で発行禁止となる。

来阪していた近松秋江に大阪を案内した。[24]


1913年(大正2年) 22歳

小説集『清二郎 夢見る子』を白羊社書店から処女出版した。

本郷区役所で徴兵検査を受けた。このとき面識はなかったが江口渙も徴兵検査を受けていた。

広島晃甫の下宿で江口渙と知り合った。[25]

東京小石川上富坂町の下宿いろは館や浅草の子供靴屋に間借りした。この頃中川嘉蔵が大和天満村から上京、浅草で商売を始めた。[26]


1914年(大正3年) 23歳

大和高田の母の元に出入りしている女性(商人某の妾・加代子。浩二の第二の恋か?)と会い、以後恋文のやりとりをした。[27]

東京牛込若松町の下宿清月館に転居、極貧の苦しい生活を送った。[28]この頃、銀座のカフェ・パウリスタにしばしば通った。[29]

新劇団「美術劇場」[30]同人として公演に参加。

翻訳の仕事を求めて広津和郎を訪ね、谷崎精二とも知り合いとなった。

母や加代子とともに関西旅行をしたことが加代子の旦那・商人某に知られ加代子と絶交、母も大和高田に居にくくなった。[31]

卒業試験に落第し早稲田大学中退。


1915年(大正4年) 24歳

母が大和高田から上京、沢田正二郎の内妻となっていた渡瀬淳子の紹介で借りた東京本郷西片町の借家に住んだ。[32]

広津和郎とともに三保の松原に旅行し島村抱月訳『戦争と平和』の下訳をした。この頃から広津とは親交を深め約1年西片町の借家に同居した。[33]


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