略年譜.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2013年3月)
1891年(明治24年)0歳
福岡県師範学校の教員であった父・六三郎と母・キョウの次男として福岡市湊町に生まれる。[5]祖父の格(善三郎より改める)は大坂町奉行所の与力であった。先祖は滋野氏で、その後は海野氏を名乗っていたが、いつからか宇野と称した。
1894年(明治27年) 3歳
父・六三郎が脳溢血で急死[6]。
父の従弟・本多義知(当時、明治燐寸会社社長)を頼って神戸市湊町へ移った。
1895年(明治28年) 5歳
母が六三郎の遺産を六三郎の姉の夫・入江憲治(大阪伊丹在の大庄屋)に預託することとなり本多家に居づらくなったので大阪市東区糸屋町一丁目に移り祖母・里勢も同居した。
母はここで志村新子[7]という若い女性や軍用商人、新派俳優松平龍太郎・秋月桂太郎などと交際し清元・三味線を覚え、浩二もしばしば芝居小屋に出入りするようになった。母の兄・福岡正朔も一時居候した
1897年(明治30年) 6歳
陸軍偕行社付属尋常高等小学校に入学、3年上級に江口渙がいた。[8]
1899年(明治32年) 8歳
入江家の破産で遺産を失い[9]、一時本多家に身を寄せるが、やがて母の兄・福岡正朔を頼って花柳界に近い大阪市南区宗右衛門町の通称十軒路地に移った。この頃新派俳優秋月桂太郎が下宿したこともあり、しばしば道頓堀で芝居見物をした。[10]
1900年(明治33年) 9歳
母は福岡家に浩二と祖母里勢を預け、兄の崎太郎は本多家に預けなおして、自らは大和高市郡天満村(現・大和高田市)の根成柿(ねなりがき)にある遠い親戚に身を寄せ、近所の料理屋(中川政蔵の経営する「紺嘉」)で三味線や踊りを教えて生活した。
1901年(明治34年) 10歳
育英尋常高等小学校に転校。[11]十軒路地に住んでいた周旋屋の子宮本卯三郎(姉の八重子が浩二の初恋の相手[12]か?)や1年下級で後に横綱大錦卯一郎となる細川卯一郎、1年上級の保高徳蔵と交友関係をもつ。
1904年(明治37年) 13歳
本多家の学資援助で大阪府立天王寺中学校(天王寺高等学校の前身校)に入学。同級生に保高徳蔵、日本画家・青木大乗(青木精一郎。浩二が同性愛的な好意を寄せたか?)[13]、後に横綱大錦卯一郎となる細川卯一郎、1年上級に画家・鍋井克之がいた。
のち校友会雑誌『桃陰』に作品(詩『ほのお』散文『故郷』『自然の法則』)を投稿した。
1906年(明治39年) 15歳
本多義知から商業学校への転校を命じられるが編入試験の前日に福岡家に逃げ帰り天王寺中学に通い続けた。
脚気が発病する。
1909年(明治42年) 18歳
天王寺中学卒業。
田山花袋の『田舎教師』の影響をうけ青木大乗(青木精一郎)とともに大阪府中河内郡若江村の小学校に代用教員として赴任。[14]
脚気が再発したため教員を辞めて大和天満村の母のもとに身を寄せ[15]、中川政蔵の弟・中川嘉蔵[16]と知り合う。朝鮮の京城にいた保高徳蔵と購入した文芸雑誌を送り合う。
1910年(明治43年) 19歳
福岡家から大和天満村に呼び寄せた祖母が死去。[17]
本多義知の子・一太郎から上級校進学のための資金援助が約束され、[18]東京赤坂霊南坂にあった本多義知の子・重造宅に寄宿[19]、早稲田大学英文学科予科に入学。同級生に高田保・三上於菟吉・沢田正二郎・増田篤夫
、1年上級に