宇野浩二
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生活に窮したため東京神田錦町の出版社蜻蛉館(社長・加藤好造[38])に「水上潔」の変名で勤務し、文芸雑誌「処女文壇」を編集、佐藤春夫・葛西善蔵などに原稿を依頼した。[39]

東京代々木の借家に転居した。

母を赤坂の本多家に預け、きみ子が横浜八王子の芸者屋に身売りした資金で東京九段中坂の下宿芳明館に転居、きみ子としばしば出会うこともあった。[40]


1918年(大正7年) 27歳

東京神田錦町の下宿錦水館に転居するが、再度下宿芳明館にもどった。多数の童話を執筆し、『二人の話』(のち『苦の世界』の第2節)を雑誌「大学及大学生」に発表した。

葛西善蔵が最初は長男、約1週間後に弟勇蔵を連れて訪ねてきた。[21]

米騒動の渦中で『屋根裏の法学士』を雑誌「中学世界」に発表。

東京本郷弓町の従兄弟(入江憲治の子)の下宿に居候し『蔵の中』を執筆した。[41]

浅草の中川嘉蔵方に居候した。[42]

三保の松原を旅行、旅先に広津和郎を呼び寄せた。


1919年(大正8年) 28歳

東京牛込神楽坂の下宿神楽館に転居し、本多家から母を呼び寄せ広津和郎も同居した。この頃、しばしば江口渙と会った。[21]

『蔵の中』を「文章世界」(編集長加能作次郎[43])に発表。[44]

訪ねてきた葛西善蔵が相馬泰三の書いた『隣人』を読み、興奮のあまり持病の喘息をおこし浩二の部屋で寝付いてしまった。病後、葛西から借金借り入れの斡旋を頼まれ改造社の横関愛造を訪ねた。[45]

江口渙の出版記念会で芥川龍之介に紹介され、佐藤春夫に再会した。[21]

『苦の世界』を『解放』に発表、新進作家として文壇的地位を確立した。

原稿執筆のために広津和郎・谷崎精二とともに下諏訪に旅行し芸者鮎子[46]と知り合った。

横浜で西洋人(弁護士?)の小間使になっていた伊沢きみ子が殺鼠用の毒団子を食べて自殺(事故死?)した。[47]


1920年(大正9年) 29歳

谷崎精二とともに下諏訪に旅行し鮎子と会い、その姐芸者である小竹[48]とも知り合った。

鵠沼の東屋にもしばしば出かけ、里見ク[49]久米正雄・芥川龍之介・佐藤春夫・佐佐木茂索大杉栄・江口渙らと過ごした。[21]

東京牛込袋町都館に母とともに下宿した。

小竹(村田キヌ)が下諏訪から押しかけてきて浩二と結婚した。[50]

江口渙の紹介で江口渙の借家と背中合わせの東京上野桜木町の借家に母とともに転居した。[21]

母の兄・福岡正朔の後妻の子・公吉が通学のために寄宿した。[51]

直木三十五のすすめで里見ク・菊池寛・久米正雄・芥川龍之介・田中純らと京都経由で大阪に講演旅行(浩二は講演せず)に行った後、芥川龍之介とともに京都経由で下諏訪に旅行し鮎子に会い、諏訪市内の花松館で活動写真を観た。[52]

銀座の台湾喫茶店女給星野玉子[53]と知り合った。


1921年(大正10年) 30歳

人間社の経営に失敗した直木三十五[21]とともに下諏訪に旅行し鮎子に会った。

広島晃甫とともに東京青山の佐藤春夫の家を訪ねた。[21]

玉子とともに伊香保(大仁?)に旅行した。このとき、見送りに来た玉子の祖母(?)・たもつに会った。[54]

母・妻が大阪へ旅行している間、玉子を自宅に呼び寄せた。

玉子から妊娠を告げられた後は玉子の家を訪れることが間遠になっていった。

ドイツから寄贈された大洋丸で里見ク・久米正雄[55]・直木三十五・加能作次郎・佐佐木茂索と横浜から京都・小倉・福岡などを経由して長崎へ旅行、途中神戸から片岡鉄兵が参加した。[21]

この頃、しばしば芥川龍之介と会い、食事などをともにした。

この頃、しばしば鵠沼の東屋に出かけ、里見ク・久米正雄・芥川龍之介・佐藤春夫・佐々木茂索・大杉栄らと同宿した。[56]近くに借家住まいをしていた江口渙・中村武羅夫を訪ねた。


1922年(大正11年) 31歳

『恋愛合戦』の装丁を依頼するために東京道玄坂の佐藤春夫の家を訪ねた。[21]

玉子が東京渋谷道玄坂下の家で長男守道を出産、祖母が自宅で鶏を飼って地玉子を販売する一方、玉子はカフェを開業した。

村上八重(1949年)

1923年(大正12年) 32歳

直木三十五とともに行った東京富士見町の待合で芸者村上八重[57]と知り合った。

直木三十五とともに下諏訪に旅行し鮎子に会った。

東京本郷菊坂の菊富士ホテルに仕事場をもち[58]、八重と折半で買った道具類を置いてしばしば八重と会い、高田保・三宅周太郎・増富平蔵・石川淳・田中純・広津和郎・直木三十五らと交わった。[21]

『子を貸し屋』を雑誌「太陽」に発表。

時事新報の文芸欄の談話を取材に来た川崎長太郎と菊富士ホテルで会い、以後しばしば訪ねてくるようになった。[21]

谷崎精二の紹介で田畑修一郎が早稲田大学の座談会への出席を依頼しに訪れ、以後しばしば訪ねてくるようになった。[21]

関東大震災に被災し[59]寛永寺境内・田端の室生犀星宅に避難する。被災した中川嘉蔵が訪ねてきた。[60]

浩二の家を出て本多義知の子・重造宅などに寄宿していた公吉が大阪へ帰った。

牧野信一が中戸川吉二とともに雑誌「随筆」の原稿を依頼に訪れた。[21]

名古屋で八重と待ち合わせ京都・大阪・奈良を旅行した。

玉子・たもつ・守道は東京祐天寺に転居、玉子のカフェ勤めで生活した。


1924年(大正13年) 33歳

薄田泣菫に会うために芥川龍之介と大阪に旅行した。

八重が東京富士見町に新築した芸者屋「新住吉」に仕事部屋をもち、通うようになった。

東京上野桜木町内の永瀬義郎の近所に転居、旧居には葛西善蔵の紹介で牧野信一が移ってきた。

八重と伊香保・榛名山・四万温泉・磯部温泉を旅行した。

葛西善蔵に金策を相談され、葛西の原稿料を前借するために葛西とともに世紀社を訪ねた。[21]

兄・崎太郎[61]を神戸の本多家から引き取った。

葛西善蔵と同居していたハナが訪ねてきて、自らを「おせい」と名乗り葛西の滞在している日光に行くといった。[21]


1925年(大正14年) 34歳

八重と神戸・大阪・奈良・熱海を旅行した。

八重と山中・山代・和倉・赤倉・別所温泉を旅行した。


1926年(大正15年・昭和元年) 35歳

里見ク・菊池寛・佐藤春夫とともに報知新聞の客員となり長編小説を執筆することになって、以後約1年間月給が入るようになった。[62]

八重と東山温泉(ここで愛人と逗留していた八重の叔母に会った。『思ひ川』参照)で落ち合って塩原温泉まで旅行した。

八重と修善寺・湯ヶ島・伊東を旅行、この直後「新住吉」の抱え芸者が逃亡し経営が悪化した。

母と箱根熱海を旅行、帰途母と別れて鵠沼の芥川龍之介を訪ねた。[63]

八重と湯河原を旅行した。


1927年(昭和2年) 36歳

『日曜日あるひは小説の鬼』を雑誌「新潮」に発表(浩二を文学の鬼と呼称するのはこの作品にも由来している)。
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