宇野浩二
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[11]十軒路地に住んでいた周旋屋の子宮本卯三郎(姉の八重子が浩二の初恋の相手[12]か?)や1年下級で後に横綱大錦卯一郎となる細川卯一郎、1年上級の保高徳蔵と交友関係をもつ。


1904年(明治37年) 13歳

本多家の学資援助で大阪府立天王寺中学校(天王寺高等学校の前身校)に入学。同級生に保高徳蔵、日本画家・青木大乗(青木精一郎。浩二が同性愛的な好意を寄せたか?)[13]、後に横綱大錦卯一郎となる細川卯一郎、1年上級に画家・鍋井克之がいた。

のち校友会雑誌『桃陰』に作品(詩『ほのお』散文『故郷』『自然の法則』)を投稿した。


1906年(明治39年) 15歳

本多義知から商業学校への転校を命じられるが編入試験の前日に福岡家に逃げ帰り天王寺中学に通い続けた。

脚気が発病する。


1909年(明治42年) 18歳

天王寺中学卒業。

田山花袋の『田舎教師』の影響をうけ青木大乗(青木精一郎)とともに大阪府中河内郡若江村の小学校に代用教員として赴任。[14]

脚気が再発したため教員を辞めて大和天満村の母のもとに身を寄せ[15]、中川政蔵の弟・中川嘉蔵[16]と知り合う。朝鮮の京城にいた保高徳蔵と購入した文芸雑誌を送り合う。


1910年(明治43年) 19歳

福岡家から大和天満村に呼び寄せた祖母が死去。[17]

本多義知の子・一太郎から上級校進学のための資金援助が約束され、[18]東京赤坂霊南坂にあった本多義知の子・重造宅に寄宿[19]早稲田大学英文学科予科に入学。同級生に高田保三上於菟吉沢田正二郎・増田篤夫、1年上級に今井白楊広津和郎谷崎精二、1年下級に保高徳蔵・直木三十五田中純青野季吉がいた。

浩二を頼り朝鮮から上京してきた保高徳蔵と水郷めぐりで利根川に旅行した。

本多家を出て東京雑司が谷の借家で自炊生活を始める。斎藤青羽・三上於菟吉・浦田芳朗らがしばしば訪れ、保高徳蔵も一時ここに同居した。[20]近所に住む秋田雨雀と知り合う。[21]

東京牛込若松町の下宿三州館(三枡館?)、さら近くの若松館に転居した。


1911年(明治44年) 20歳

東京牛込白銀町の下宿都築に転居、同じ下宿に三上於菟吉・泉斜汀夫妻がおり、近松秋江・斎藤青羽・三富朽葉・今井白楊・浦田芳朗・片岡鉄兵らが訪れてきた。

大阪に帰省し、青木大乗(青木精一郎)の紹介で渡瀬淳子を知った。[22]


1912年(明治45年・大正元年) 21歳

青木大乗(青木精一郎)の父の出資で三上於菟吉・斎藤青羽・今井白楊・増田篤夫らと大阪で雑誌『しれえね』発刊、風俗紊乱の理由[23]で発行禁止となる。

来阪していた近松秋江に大阪を案内した。[24]


1913年(大正2年) 22歳

小説集『清二郎 夢見る子』を白羊社書店から処女出版した。

本郷区役所で徴兵検査を受けた。このとき面識はなかったが江口渙も徴兵検査を受けていた。

広島晃甫の下宿で江口渙と知り合った。[25]

東京小石川上富坂町の下宿いろは館や浅草の子供靴屋に間借りした。この頃中川嘉蔵が大和天満村から上京、浅草で商売を始めた。[26]


1914年(大正3年) 23歳

大和高田の母の元に出入りしている女性(商人某の妾・加代子。浩二の第二の恋か?)と会い、以後恋文のやりとりをした。[27]

東京牛込若松町の下宿清月館に転居、極貧の苦しい生活を送った。[28]この頃、銀座のカフェ・パウリスタにしばしば通った。[29]

新劇団「美術劇場」[30]同人として公演に参加。

翻訳の仕事を求めて広津和郎を訪ね、谷崎精二とも知り合いとなった。

母や加代子とともに関西旅行をしたことが加代子の旦那・商人某に知られ加代子と絶交、母も大和高田に居にくくなった。[31]

卒業試験に落第し早稲田大学中退。


1915年(大正4年) 24歳

母が大和高田から上京、沢田正二郎の内妻となっていた渡瀬淳子の紹介で借りた東京本郷西片町の借家に住んだ。[32]

広津和郎とともに三保の松原に旅行し島村抱月訳『戦争と平和』の下訳をした。この頃から広津とは親交を深め約1年西片町の借家に同居した。[33]

広津和郎とともに相馬泰三の下宿で初めて葛西善蔵[34]と会った。

処女作童話『揺籃の唄の思ひ出』を雑誌「少女の友」に発表。


1916年(大正5年) 25歳

蛎殻町の銘酒屋にいた伊沢きみ子[35]と馴染み、西片町の家に同棲した。

母の兄・福岡正朔が危篤となったため、母は大阪に行き葬式万端を済ませた。[36]

浩二の生活苦を救うためきみ子が蛎殻町から横須賀の芸者屋に身売りした。きみ子が前借を踏み倒して脱走するのを幇助したため身を隠す必要から東京渋谷の竹屋に「水上潔」の変名で大阪から帰った母とともに間借りした。[37]

この頃、しばしば江口渙に会い、きみ子に内緒で原稿料を得るために江口渙名で童話を執筆した。。[25]


1917年(大正6年) 26歳

生活に窮したため東京神田錦町の出版社蜻蛉館(社長・加藤好造[38])に「水上潔」の変名で勤務し、文芸雑誌「処女文壇」を編集、佐藤春夫・葛西善蔵などに原稿を依頼した。[39]

東京代々木の借家に転居した。

母を赤坂の本多家に預け、きみ子が横浜八王子の芸者屋に身売りした資金で東京九段中坂の下宿芳明館に転居、きみ子としばしば出会うこともあった。[40]


1918年(大正7年) 27歳

東京神田錦町の下宿錦水館に転居するが、再度下宿芳明館にもどった。多数の童話を執筆し、『二人の話』(のち『苦の世界』の第2節)を雑誌「大学及大学生」に発表した。

葛西善蔵が最初は長男、約1週間後に弟勇蔵を連れて訪ねてきた。[21]

米騒動の渦中で『屋根裏の法学士』を雑誌「中学世界」に発表。

東京本郷弓町の従兄弟(入江憲治の子)の下宿に居候し『蔵の中』を執筆した。[41]

浅草の中川嘉蔵方に居候した。[42]

三保の松原を旅行、旅先に広津和郎を呼び寄せた。


1919年(大正8年) 28歳

東京牛込神楽坂の下宿神楽館に転居し、本多家から母を呼び寄せ広津和郎も同居した。この頃、しばしば江口渙と会った。[21]

『蔵の中』を「文章世界」(編集長加能作次郎[43])に発表。[44]

訪ねてきた葛西善蔵が相馬泰三の書いた『隣人』を読み、興奮のあまり持病の喘息をおこし浩二の部屋で寝付いてしまった。病後、葛西から借金借り入れの斡旋を頼まれ改造社の横関愛造を訪ねた。[45]

江口渙の出版記念会で芥川龍之介に紹介され、佐藤春夫に再会した。[21]

『苦の世界』を『解放』に発表、新進作家として文壇的地位を確立した。

原稿執筆のために広津和郎・谷崎精二とともに下諏訪に旅行し芸者鮎子[46]と知り合った。

横浜で西洋人(弁護士?)の小間使になっていた伊沢きみ子が殺鼠用の毒団子を食べて自殺(事故死?)した。
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