宇野浩二
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^ 『十軒露地』『橋の上』参照。
^ 青木大乗は日本経済新聞掲載の『宇野浩二君』という文章で次のように書いている。「宇野の最も変っていたのは、毎日あっているのに、私に手紙を二日目ごとに書いてくることだった。・・・・手紙の終わりには『道頓堀川畔、ユアース弟格ニ』と書くのであった。それがみなラブレターで、実に纏綿たる情緒のあふれたものだった。」
^ 北若江小学校に勤務して正願寺に寄宿した。『或る青年男女の話』『思ひ出の記』『人間同志』参照。
^ 『人間同志』『思ひ出の記』参照。
^ 『人心』『高天ヶ原』『枯野の夢』『子を貸し屋』参照。
^ 母と伯父・福岡正朔により根成柿の共同墓地に埋葬された。『思ひ出の記』『枯野の夢』『人間同志』『高天ヶ原』参照。
^ 『思ひ出の記』参照。
^ 本多家の筋向いに住んでいた国際法学者寺尾亨(東京帝大七博士の一人で孫逸仙の親友)に保証人となってもらい、寺尾邸で開かれた晩餐会にしばしば参加した。寺尾家では養女となっていた東山千栄子本多謙三(商科大教授)、頭山満などと顔をあわせた。『文学の三十年』『出世五人男』参照。
^ 保高徳蔵「宇野浩二」(『作家と文壇』所収)、『文学の三十年』参照。このときの下宿代や食費だけではなく、前年の旅行の費用や東京での遊興費などをほとんど保高が負担していたようである。またこの頃、浩二は本多家の女中と関係をもち童貞を失ったようである。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『文学の三十年』参照。
^ 『青春期』参照。
^ 三上於菟吉の小説『薤露歌(かいろか)』が風俗紊乱の罪に問われ40円の罰金を科された。『青春期』参照。
^ 『近松秋江論』参照。
^ a b 江口渙「若き日の宇野浩二」(『わが文学半生記』)参照。
^ 『高天ヶ原』『枯野の夢』参照。
^ 『若い日の事』『高天ヶ原』参照。
^ この下宿には俳優倉橋仙太郎がいたほか、女優の渡瀬淳子などもしばしば来訪し、美術劇場創設について話し合われた。『恋愛合戦』『文学の三十年』参照。
^ 佐藤春夫や青鞜社同人の尾竹紅吉らと顔を合わせた。
^ 東京美術学校学生だった永瀬義郎・鍋井克之が芸術座を脱退した倉橋仙太郎とともに創立。同人には芸術座を脱退した沢田正二郎・渡瀬淳子らの他に高田保・片岡鉄兵がいた。脚本を担当したのは秋田雨雀・楠山正雄。福沢桃介邸内にあった試演場や有楽座で公演を行なうが資金難で解散。『恋愛合戦』『文学の三十年』参照。
^ 『若い日の事』参照。
^ 『西片町の家』参照。
^ 広津和郎「西片町時代」(『年月のあしおと』所収)、『文学の三十年』参照。
^ 『文学の三十年』『文芸よもやま談義 葛西善蔵の一生』参照。
^ 伊沢修二伊沢多喜男の姪。父は医者、叔父に警視総監から台湾総督になった伊沢多喜男をもつなど、上流の一族出身だが、家出して周旋屋に騙され横須賀で芸者に出ていたが、そこを夜逃げ同然で鞍替えして東京蛎殻町の娼婦街で銘酒屋につとめていた。浩二は後に彼女の激烈なヒステリー症状に悩まされることとなる。『軍港行進曲』『続軍港行進曲』『苦の世界』『人心』『浮世の窓』参照
^ a b 『人間同志』参照。
^ 『軍港行進曲』『浮世の窓』参照。
^ 『軍港行進曲』では加藤、『苦の世界』では山本、『浮世の窓』では芳野友造、『従兄弟同志』では佐原新之助という登場人物のモデルである。加藤の依頼で『誰にも出来る株式相場』を書き出版した。
^ 当時、葛西善蔵は金策のために末っ子とともに妻を故郷に帰し、上の2人の子と牛込天神町にいた。この時、葛西は「雪をんな」を執筆した。『文学の三十年』参照。
^ 『軍港行進曲』『人心』参照。
^ 広津和郎が新潮社社長の佐藤義亮から近松秋江の質屋通いの話を聞き、浩二に小説の題材として提供した。『蒲団の中』参照。
^ 『枯野の夢』『人心』参照。
^ 『文芸よもやま談義 加能作次郎の一生』参照。
^ 広津和郎とともに生田長江のもとに行き当初は雑誌「中外」に発表されるはずであったが「中外」が廃刊となってしまったので「文章世界」に掲載されることになった。菊池寛東京日日新聞で『蔵の中』を「宛然大阪落語」だと批評すると、宇野は葉書に「僕のが大阪落語なら、君の歴史小説は新講談だ」と書いて菊池に送った。広津和郎『宇野の処女作「蔵の中」』『「蔵の中」物語』参照
^ 『文学の三十年』、葛西善蔵『仲間』参照。
^ 本名原とみ。芸者屋梅の家の主人だった叔母の養女となり、3人の芸者を抱えながら自分も芸者に出ていた。当時旦那持ちで1歳の子供もいた。いわゆる諏訪物(ゆめ子物)と呼ばれる『人心』『甘き世の話』『夏の夜の夢』『一と踊』『心中』『山恋ひ』などに登場する女性。鮎子とはプラトニックな関係を保ち男女の関係にはならなかった。
^ 『人心』参照。
^ 本名村田キヌ。東京浅草の太物問屋の生まれ。幼いときに両親に死別し浅草の芸者屋に養女にやられ、後に八王子・下諏訪の芸者屋に売られてしまう。そこで芸者屋・新三春家の看板を買って主人となる。異母の妹が2人いて、1人(鈴木コウ)は魚屋に嫁ぎ(『器用貧乏』『自分一人』参照)他の1人(作中ではお半・るい子)は九州に攫われ私生児を産んだ。『甘き世の話』参照。鮎子との場合とは異なり、小竹とは男女の関係をもったようである。
^ 『里見ク』参照。
^ 『一と踊』参照。浩二は小竹との結婚後もしばしば下諏訪を訪れ、鮎子とのプラトニックな恋愛を持続させた。
^ 『従兄弟の公吉』参照。
^ 芥川の佐々木茂索宛書簡に「白玉のゆめ子を見むと足びきの山の岩みちなづみてぞ来し」とある。また、「あなたの様な人にお茶を汲んでもらったりすると嬉しい・・・・すっかり好きになった、宇野の前ではいはれないが、顔が赤くなる・・・」という内容の手紙を鮎子に送っている。後年(戦後)、鮎子は子供を連れて芥川夫人のもとを訪れ、この手紙と引き換えに借金の申し出をするが断られた。(芥川文『追想芥川龍之介』)『文学の三十年』、『芥川龍之介』参照。
^ 玉子の母(玉子は実は祖母だと言っていた)・たもつは元旗本の娘だが明治維新で没落し吉原の娼妓となった。歌舞伎俳優11代片岡仁左衛門に見染められ結婚したが離婚し、その後懇意にしていた7代沢村宗十郎が某女に産ませた玉子を引き取って養育した。(あるいは片岡仁左衛門との離婚の原因は、たもつと沢村宗十郎との密通で、たもつの私生児だった女優某の娘が玉子とも考えられる。)したがってたもつは玉子の母でも祖母でもない可能性がある。当時、玉子は或る老人の妾となっていた。玉子物と呼ばれる『見残した夢』『人さまざま』『四方山』『子の来歴』参照。
^ 浩二は妻や母に隠して玉子と連絡するために、しばしば従弟の公吉を使った。
^ 『寂しがり屋』参照。
^ 『痴人の愛』のナオミのモデルであった谷崎潤一郎の夫人千代子の妹せい子も同宿したことがあった。また浩二は佐藤春夫から谷崎夫人千代子への恋情を切々と語られることもあった。
^ 母の家出と父の病死のためブリキ職人である祖父の後妻(義理の祖母)に名古屋で養育される。
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