宇野政秀
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 凡例宇野政秀
時代室町時代 - 戦国時代
生誕応永28年(1421年)?
死没文亀2年10月25日1502年11月24日
改名政秀→高枕軒性喜(号)
別名赤松政秀
官位下野
幕府室町幕府 播磨守護代
主君赤松政則
氏族宇野氏
兄弟文溪聖才(建仁寺住持)、政秀
則貞
養子村秀?
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宇野 政秀(うの まさひで)は、室町時代から戦国時代にかけての武将赤松氏の一族で赤松則祐の6世の孫。高枕軒性喜(こうちんけんしょうき)と号する。塩屋城主。

赤松政秀ともいい、玄孫が同名・同官途である。政秀は赤松姓を名乗るもその出自には不明な点が多く、宇野と書かれることもあり、本姓はこちらの可能性もあるという[要出典]。
生涯.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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赤松家復興

享徳3年(1454年)、赤松氏復興を目指す赤松則尚の挙兵に呼応して兵を挙げたのが政秀の初見とされる。この挙兵は翌享徳4年(1455年)には山名宗全によって鎮圧され、則尚は自害に追い込まれたが政秀は山名軍の追跡をかわし姿をくらました。後に長禄の変における神璽奪回の功によって長禄2年(1458年)に赤松政則加賀半国守護に任じられ、赤松家復興を果たすと政秀もその家臣の列に加わった。

京都にて浦上則宗侍所所司代を務めながら幼主・赤松政則の補佐をする一方で、政秀は堀秀世らと共に嘉吉の乱で宗全ら山名氏の統治するところとなった赤松旧領の播磨国に向かい、赤松旧臣を糾合して山名氏に対抗した。政秀の播磨掌握は速やかに行われたようで、早くも応仁元年(1467年)12月頃には諸役免除などの文書を発給している。この政秀の統治は文明15年(1483年)の山名氏の侵攻まで保たれた。

政秀の他の活動としては、応仁の乱で東軍に属して畿内を転戦、文明元年(1469年)10月に備後国守護・山名是豊(宗全の次男だが父に反抗していた)の軍勢に加わり摂津国兵庫大内政弘の軍を破り、文明3年(1471年)からは宇野上野入道や浦上則宗と共に交通の要衝である山城山崎城の守備を任されていたが、翌文明4年(1472年)8月に西軍の畠山義就の急襲に敗れて城を放棄したことが知られる。
福岡合戦

文明15年(1483年)、山名政豊(宗全の孫)と結んだ備前国松田元成が赤松家の守護所櫛橋則伊や小鴨大和守ら赤松方の諸将の籠る備前福岡城を急襲した。この際に政秀と浦上則宗の子・則景が福岡城救援に派遣されたが、福岡城に到着する前の同年12月25日に赤松政則の本隊が播磨に迫る政豊を迎撃するも大敗し(真弓峠の戦い)、政則が山名軍に敗れ姫路へと敗走した報に兵に動揺が走り、結局福岡城救援には向かうことが出来ず途中で播磨へと兵を返した。これによって福岡城は奪われ、播磨・備前・美作の3ヶ国における赤松家の威信は大きく揺らいだ。

この後、則宗や小寺則職らが共謀して権威の失墜した政則を廃して、有馬慶寿丸(澄則か)を新たな君主に擁立すべく大御所足利義政に働き掛けるという事件があったが政秀はこの企てには参加していなかった。この後申請が却下された為、播磨国衆に山名に寝返る者や勝手に新たな赤松氏当主を擁立しようと目論む者などが出始め更に混乱し、一時は浦上氏の本拠である三石城まで包囲されるなど危機に立たされた。

文明17年(1485年)閏3月末、京で隠棲していた政則が幕府の援助を受けて復帰して蔭木城を攻め落とした。この報を政秀らは京都で聞き、相国寺蔭涼軒の亀泉集証を訪ねて祝宴を行ったという。


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