宇都宮成綱
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

注釈^ 通説に基づく。但し、宇都宮成綱は宇都宮正綱の嫡長子弥三郎として知られているが、古河公方足利成氏が成綱に与して武茂氏との戦いで活躍した簗右京亮に対しての感状には成綱のことを弥四郎と表記されているため、武茂兼綱が正綱の嫡長子で成綱は二男であった可能性が指摘されている[2]
^ 通説では、芳賀成高の子(宇都宮持綱の外孫)で宇都宮氏に養子縁組したともいう[3]。だが、江田郁夫によれば、将軍足利義政から宇都宮正綱に充てられた御内書の中に「亡父等綱」と記されているものがあること、そもそも宇都宮等綱は芳賀成高ら重臣との対立の末に亡命先の奥州白河で没した経緯からして、等綱が自分を宇都宮から追放した成高の子と養子縁組をすることも、反対に成高が自分の子を自分が擁した明綱の対抗馬にする恐れのある養子縁組をすることも、いずれも考えにくいことから、宇都宮正綱は等綱の実子とする系譜が、正しいとする[4]
^ 兄とする説もある。
^ ユリウス暦(但し最下段のみグレゴリオ暦)。
^ 宣明暦長暦(但し最下段のみグレゴリオ暦)。
^ 数え年
^ 「宇都宮系図別本」[19]には小田氏治の娘とあるが、氏治は戦国時代末期の武将であり、実際は小田成治の娘であるという[20]
^ 旧来、興綱は成綱の弟とされていたが、大永4年4月1日(朔)に出されたと比定できる長南三河守(上総武田氏一族)宛に出された足利高基書状(「東京大学史料編纂所所蔵幸田成文氏旧蔵文書」[21])には宇都宮忠綱の失脚後に「名代若輩(若輩の当主代理)」が擁立されたことが記されており、忠綱・俊綱(尚綱)・興綱を実の兄弟(成綱の子)とする系譜の方が正しいことになる[22]

出典^ 野州中村神社縁起 P28(中村神社文書編纂委員會、中村神社顕彰會、ISBN-4815031096)
^ 江田 2014.
^ 「芳賀系図」『下野国誌』。 
^ 江田 2014, pp. 35?36.
^ 江田郁夫「6 宇都宮正綱の出自」『下野の中世を旅する』随想舎、2009年、107-111頁。 
^ 『田島町史』 第5、福島県田島町、1981年、595頁。"文亀三年(1503)会津田島長沼氏、下野宇都宮氏於塩屋郡合戦"。 
^ 『塩原町誌』塩原町、1980年、44頁。 
^ 塩原町文化協会 編『塩原の里物語 - 塩原温泉千二百年の歴史』随想舎、1998年10月30日、55頁。 
^ a b c 「那須記 巻之七 資房上庄下庄一統事」『栃木県史 史料編・中世五』。"我弟に彼跡を継せて・・・(注釈・宇都宮成綱山田資久の跡を弟に継がせようと企てる)"。 
^ 江田 2012, pp. 228?230.
^ 佐藤博信「東国における永正期の内乱について」『続中世東国の支配構造』思文閣、1996年、50-76頁。 
^ 市村 2013, p. 251, 石塔群の分析.
^ 市村 2013, pp. 247?255, 地蔵院宇都宮氏の石塔.
^ 恩田 2015, p. 219.
^ 堀田芳賀系図 芳賀高綱の項「大永七年十月六日忠綱卒 法名長雲 子息興綱号下総守」など
^ 江田 2014, 第二章 宇都宮家中と笠間氏.
^ 月井剛(著)、栃木県歴史文化研究会(編)「中世後期における武茂氏の動向」『歴史と文化』9号、2000年。 
^ a b 「宇都宮系図」『下野国誌』。 
^ a b 「宇都宮系図別本」『続群書類従』。 (宇都宮隆綱家蔵)
^ 市村 2013, 江田郁夫「下野宇都宮氏の婚姻関係」.
^戦国遺文 古河公方編』東京堂出版、2006年。
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:78 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef