永正6年(1509年)、蘆名盛高が長沼政義を先頭に関谷片角原に出陣してくる。それに対して成綱は紀清両党、一門である塩谷氏やその家臣である大館氏、山本氏、塩原綱宗などを率いて、和田山片足坂の三郎淵で対陣した。平貞能の末裔である田野城
主の関谷氏が突然宇都宮勢から蘆名勢に寝返り、宇都宮勢の動きを蘆名勢に密告しようとしたが、成綱はこれに気づき、攻撃する。その結果、蘆名勢は総崩れとなり、成綱ら宇都宮勢の大勝となる(片角原の戦い)。これによって、塩原領は永正7年(1510年)、宇都宮成綱の物となり、弟の塩谷孝綱に与えた[6][7]。成綱はこの合戦で奮戦した塩原綱宗に恩賞として塩原城城主へと任命した[8]。
永正の内訌詳細は「永正の内訌 (下野宇都宮氏)」を参照
戦国時代初期の永正期に、宇都宮成綱と芳賀高勝の間に起こった大きな内訌で、最終的には宇都宮錯乱にまで発展した。内訌が勃発した背景には、永正3年(1506年)に古河公方・足利政氏とその子・足利高基が政治方針の違いによって対立し、高基の妻・瑞雲院の父である宇都宮成綱の元へ逃れており、宇都宮氏がこの公方家の争いで重要な位置を占めていた事があった。 永正3年(1506年)、政氏と高基の対立から永正の乱が勃発すると、成綱は宇都宮へ逃れてきた婿の高基を庇護し、古河公方家の争いに介入。この争いに乗じて勢力の拡大を図った。成綱は婿の高基を支援し、政氏と対立した。ところが、家中の実権を握る芳賀高勝は足利政氏を支持したためにこれに同意せず、宇都宮氏の家中は分裂状態になった。 成綱は宇都宮家中が一致していないことを危惧し、また自身への権力の集中も兼ね、芳賀氏の粛清討伐を決意する。 永正8年(1511年)頃、成綱と芳賀高勝の争いが激化し、武力衝突にまで発展するが、高勝の謀略によって成綱は強引に隠居させられた。同時に、高勝によって嫡子の宇都宮忠綱が擁立され、遅くとも永正9年(1512年)には、宇都宮氏第18代当主となった。しかし、隠居後も成綱が実質的な当主であり、実権を握っていた。また、成綱はこの間に弟(忠綱にとっては叔父)の孝綱を塩谷氏に送り込み家督を継がせており、また、同じく成綱の弟の兼綱も武茂氏の家督を継承している。さらには16世紀初頭に下総結城氏の結城政朝に姉の玉隣慶珎大姉
古河公方家内紛への介入
成綱隠居と忠綱擁立
この成綱の隠居と芳賀高勝による忠綱擁立の真相は、実は成綱による家中の完全掌握を狙った計略の1つであった。
宇都宮錯乱詳細は「宇都宮錯乱」を参照
永正9年(1512年)4月、成綱は芳賀高勝を謀殺した。これによって芳賀氏与党が大反乱を起こし、成綱は芳賀氏側の重臣の城館を一斉に攻撃している。永正の内訌は、宇都宮錯乱と呼ばれる大きな内紛へと発展した。足利高基による支援や家臣の壬生綱重らの活躍により、約2年かけてこの乱を鎮圧。芳賀氏は宇都宮成綱・忠綱を頂点とする新しい支配体制に取り込まれる形で、宇都宮錯乱及び永正の内訌は収束した。
永正9年、成綱・結城政朝を筆頭とした反対派勢力に圧迫されていた古河公方・足利政氏は古河城を退去し、子の高基が古河城に入城した。これにより、父子争いに勝利した足利高基が古河公方に就任した。
佐竹義舜との覇権争い
上那須氏乗っ取りの企ての後継者争いが勃発し上那須氏が滅亡すると成綱は血縁関係を理由に宇都宮一族の者(宇都宮興綱)を上那須氏へ継がせ再興し、那須氏を内部から完全掌握しようと目論んでいたが、その脅威を察知した下那須氏の那須資房によって先手を打たれ那須氏は統一を果たしたためその野望は実現しなかった[9]。
成綱の岳父にあたる上那須氏当主の那須資親は永正の乱では成綱に従い足利高基を支持していたが、統一那須氏当主となった那須資房は佐竹義舜や小山成長らとともに足利政氏に与して成綱と対立関係になった。
竹林の戦い詳細は「竹林の戦い」を参照
永正11年(1514年) 7月頃に、古河公方家の内紛で足利政氏を支持していた芳賀氏が、宇都宮錯乱を経て足利高基を支持していた宇都宮成綱・忠綱の支配体制に取り込まれることによって、当時祇園城に移座していた足利政氏の背後の守りがなくなった。これに危機感を覚えた政氏は、佐竹氏、岩城氏に参陣要請を出し、それに応じた佐竹義舜、岩城由隆、佐竹氏と同盟関係であった那須氏の那須資房は、永正11年7月29日に出陣し、2万もの大軍を率いて下野国に侵攻。