宇都宮市
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宇都宮市の東部に大規模な内陸型工業団地が開発され、1984年には関東地方では唯一「テクノポリス」に地域指定され各種メーカーの研究開発拠点が設置されるなど工業都市としての顔を有し、北関東工業地域群馬県太田市に次ぐ2位で、県内最大の地域商工業都市となっている[3][4]。また、首都圏に立地することに加え東北新幹線宇都宮線東北本線や湘南新宿ライン上野東京ライン)などの鉄道路線により都心とのアクセスが至便であることから、東京の衛星都市としての性格も有しており、都心通勤者を対象としたマンションが多数建設・供給されている。

宇都宮市西部で採掘される「大谷石」は帝国ホテル建設などにも使われ、関東大震災での安全実績が評価され、その後は関東各地の建造物の建材として汎用された。

餃子(宇都宮餃子)が食文化として定着しており、人口当たりの購入額の多さで静岡県浜松市宮崎市と日本一を競うほどである[5]餃子通りを中心に専門店も多く、地元住民が利用するだけでなく、観光客誘致にも一役買っている。他にも、カクテルジャズなどを活用した地域おこしも進められている。

市章は、「亀の甲」と漢字の「宮」を模したデザインを用いている。「亀の甲」は宇都宮城の別称「亀ヶ丘城」に由来する。市内にはこのほか「亀の甲坂」や「亀ヶ甲」「亀の井」といった亀の付く地名などが見られる。歴史的には鎌倉亀ヶ谷に居したと云われる下野守源義朝にもちなむ。
歴史

歴史的には、当地は古代毛野国令制国時代には下野国に属し、市域姿川流域には縄文時代の大集落跡である根古谷台遺跡があるなど、紀元前より人の生活の場であったことが知られている。また宇都宮市中心市街地は平安時代の下野国河内郡池辺郷で、その東端を流れる田川沿岸には旧古多橋駅が、また市東部郊外を流れる鬼怒川の沿岸には旧衣川駅があったと推定されており、さらに市域平野部には紀元4-7世紀に建造されたと推定される古墳や住居跡が多数存在し、戸祭山麓には下野薬師寺河内郡衙で使用された屋根を焼いた跡もあるなど、東山道沿道にあり地域人口の一集積地であったと考えられている。

上代には池辺郷の鏡ヶ池畔には地の神を祀る社が建てられ、平安時代後期にはこれを「宇豆宮」「宇都宮明神」として祭祀し、鎌倉時代から戦国時代にかけてはこの神領を預かった神職家で北面武士でもあった一族が宇都宮氏を名乗り鎌倉御家人として宇都宮城を拠点とした。城下に多数の仏教寺院を建立して宇都宮は東国の都であったと比喩されることもあった。

この宇都宮社は、中央政権が関東奥州を掌握するために東国に派遣した諸武門の奉幣を受け、藤原秀郷平将門の乱源頼義奥州十二年合戦源頼朝義家塚徳川家康征夷大将軍就任など、その機会は日本史上の節目に前後して行われた。宇都宮城下は鎌倉街道中道(奥大道)や日光古道などが通る交通の要衝で、沿道は富で潤い、その痕跡は日光古道沿線の西根や門前などに今も見られる。

鎌倉府の弱体化と後北条氏の台頭に拠って宇都宮氏も勢力を弱め、近接勢力の那須氏日光山僧兵の侵略を受けて宇都宮は一時灰燼化する。宇都宮氏は拠点を大谷の多気山に移し、程なく豊臣秀吉小田原征伐に続く宇都宮仕置よって宇都宮に復帰するが、秀吉の死に前後して改易となった。その後に宇都宮城主となった浅野長政蒲生秀行城下町に紺屋町、日野町といった商人街を作り、また江戸幕府の初代征夷大将軍となった徳川家康は宇都宮社に寄進してこれを復興するとともに、宇都宮を古道奥州道・日光道の宿駅とするよう命じた。宇都宮城主奥平家昌本多正純が宿場機能を併せ持つ近世宇都宮城下町を整備し、宇都宮宿五街道のうち日光街道奥州街道の二道の追分となり、街道一の繁盛地として大いに賑わった。

当時の宇都宮宿は地方宿としては日本国内有数の宿場町だった。五街道では東海道大津宿府中宿(家数3,500軒、人口14,000人級)や熱田宿日光街道千住宿(家数2,000 - 3,000軒、人口10,000人級)には及ばないものの、東海道品川宿四日市宿桑名宿岡崎宿浜松宿島田宿奥州街道白河宿、甲州街道八王子宿(家数1,200 - 1,800軒、人口6,000 - 7,000人級)と同等の規模を擁していた。

市域を通る二つの街道には、ほか雀宮宿徳次郎宿白沢宿が置かれた。幕末には戸田氏宇都宮藩主となり、『山陵志』を著わした蒲生君平を輩出するなど王政復古に寄与した。戊辰戦争時では宇都宮城の戦いによって城下は再び灰燼と帰すが、明治期には明治天皇によりその業績が称えられた。近代には奥州街道に代わって明治国道6号(現国道4号)が設けられ、第14師団の本営が置かれると本営のあった国本村戸祭まで明治国道60号(大正国道29号、現:国道119号)も開通した。宇都宮は軍関係の需要が増え軍都として繁栄したが、太平洋戦争末期の宇都宮大空襲で三度目の灰燼となった戦後は、内陸型近代工業を中心とする近代産業都市として発展した。

現在は宇都宮城、清巌寺鉄塔婆一向寺汗かき阿弥陀宝蔵寺およりの鐘興禅寺木造釈迦如来坐像旧篠原家住宅、その他大谷石建築や八幡山公園の大楠、旭町の大いちょう祥雲寺のしだれ桜などの歴史遺産・自然遺産の保全活動にも手が尽くされている。2007年(平成19年)には宇都宮城址公園が日本の歴史公園100選に選定され、2009年(平成21年)4月10日には1960年昭和35年)3月15日の地域指定より一度も公園計画が策定されて来なかった宇都宮県立自然公園にも公園計画書が制定された。

2020年代現在では、全国初の全線新設型ライトレール路線である宇都宮芳賀ライトレール線の建設、コンパクトシティスマートシティの実現による都市機能の向上、都市活動により排出される二酸化炭素を実質ゼロとするカーボンニュートラルの推進など、「未来都市うつのみや」の具現化へ向けた先進的なプロジェクトが進行している(後述)。


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