自身の愛馬はアメリカ合衆国やアラビアから輸入したものを自ら調教し、暇さえあれば愛馬を預けてある山梨県の牧場に通っていた[13]。70歳の時に妻が病気になったため、愛馬を手放し、一旦乗馬を止めたが、2011年11月22日に放送されたドキュメンタリー番組『旅のチカラ 「宇津井健80歳 馬上人生を過ぐ」』(NHKBSプレミアム)では10年ぶりに乗馬をした。かつて輸入したかったが、いろいろな障害で愛馬にできずに断念した、念願のアンダルシア馬で、1泊2日の乗馬旅をしている[14]。馬肉も食し「お皿の上に乗っかっている物を可哀想がっても仕方ない。おいしく頂く事が供養だ」と語っていた。
エピソード
長きにわたる芸能生活で、仕事に遅刻したことや休んだことは1度もなかった。
俳優座の同期に仲代達矢がおり、仲が良い友人の一人である(年齢は宇津井が1歳年上である)。2009年7月16日放送の『徹子の部屋』に仲代と一緒に出演したことがある。
『赤いシリーズ』等多くの大映ドラマで共演した三浦友和(本名・稔)の芸名の名付け親でもあり、芸名の"和"という字は、宇津井の親友である大映テレビの野添和子プロデューサーの名前「和子」から拝借して名付けた。なお、三浦のデビュー作は宇津井主演・野添プロデュースの『シークレット部隊』である。
自身の結婚式の仲人は、自身が1960年に初主演したテレビドラマ『人生劇場』の作家・尾崎士郎が務めた[3]。
自宅では次男家族と同居しており、宇津井は2階建ての1階部分に住んでいた[3]。
長男の宇津井隆(うつい・りゅう)はフジテレビに入社し総合事業局イベント事業センターイベント事業局長などを務めた。隆は1980年代よりとんねるずと親交があり、とんねるずのオールナイトニッポン内のトークでよく名前が出てきたほか、2005年6月23日の『とんねるずのみなさんのおかげでした』に出演もした。
長らく東京・成城に居住していた。朝食は毎日自分で作っていたが、成城時代は近所に飲食店も多く、外食するには便利な街だったと取材で回想し、街への謝意を述べている[3]。
深夜にテレビ放映される通販番組が好きで、健康関連のグッズをよく購入していたという。また、ジーンズは約40本持っていて、そのサイズは全て31インチだった[3]。
2005年の自身の誕生日に、重病を患うもクリスチャンになり気丈に振舞っていた妻の姿に心を打たれ、宇津井自身もクリスチャンに改宗した[15]。
自身を切磋琢磨する方法の一つとして、ヒップホップダンスを習っていたことがあった。月謝を払って講師と向き合うその緊張感を楽しんでいたという[16]。
50歳で一時は1日60本吸っていたたばこを止め、60歳で飲酒も止めている。一時は米も食べず、タンパク質を摂るのも制限していたことがあった。「スケジュールや枠を作るなどして自分を律する」ということを好んでいたという[3]。米を食べていない間は、ドラマの食事シーンにて大根おろしで代用していたほどだった[4]。
小柳ゆきのファンで、車での移動中は小柳の曲を聴きながらリズムを取り体を揺らしたりしていた。また、ライブにもよく行っていた[4]。
俳優業については、「俳優が年齢に流されて年老いてゆくのは良くないことだ」「自分を常に発展途上にしておきたい」「役者は常に死ぬまで人に教わるもので、進歩しない役者は意味のない存在だ」と述べている[16]。
『ザ・ガードマン』の共演者だった倉石功から「そろそろ嫁さんが欲しい」と相談された宇津井が、自身が贔屓にしていた料亭の娘に「金は持っていないけど堅実な男がいるから」と言って倉石を紹介して引き合わせた。倉石はその女性と交際期間半年で結婚した[17]。
関根勤と小堺一機が出演していたラジオ番組『コサキン』シリーズにおいては、『スーパージャイアンツ』で宇津井が演じた主人公の股間部が目立ったことに端を発した宇津井の股間ネタが頻繁に扱われ、さらに『新幹線大爆破』や『少女に何が起ったか』、関根も出演した『赤い激突』における宇津井の演技もネタにされた。だが宇津井は、番組内で「江戸前でキュート」と評しているようにこの2人には好感を持っており、ラジオにも度々ゲスト出演、小堺が司会の『ライオンのごきげんよう』にも出演している。
2006年4月12日、長年連れ添った夫人が膵臓癌のため亡くなった。死去した当日も、宇津井は普段通りの様子でラジオやドラマ『渡る世間は鬼ばかり』の仕事をこなした。この時、石井ふく子プロデューサーは「奥さんの死を口止めされていた。