宇崎竜童
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山口百恵に1976年「横須賀ストーリー」1977年「イミテイション・ゴールド」1978年「プレイバックPart2[注釈 1]1979年「しなやかに歌って」1980年「ロックンロール・ウィドウ」「さよならの向こう側」など数多くの楽曲を提供しヒットさせ、彼女の全盛期を支えた。
多方面での活躍

映画『曽根崎心中』(1978年)[15]、『TATTOO<刺青>あり』(1982年)に主演しているが『曽根崎心中』は梶芽衣子と友人だったことが、主演のきっかけとなった。

1980年、バンド名を「ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド」に改名するも、翌年解散した。解散後はさらにドラマ出演、映画・舞台音楽や監督などに進出[4]。1984年、音楽的新境地を開くために「竜童組」を結成。1990年に活動休止。

1993年、元ザ・スパイダース井上堯之と共に大人のロックバンドを目指すため、「どちらかが死ぬまで続けよう」との約束で「宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之」を結成。1998年に活動休止するが、2人の約束は維持した[16]

1998年以降はソロ歌手として活動。2008年にはデビュー35周年を迎え、2枚組のブルース・アルバム、2枚組のベスト・アルバムのリリース、記念ライブが行われた。

2008年4月10日、憲政記念館で開催された「天皇皇后両陛下御大婚五十年をお祝い-する集い」に臨席し、祝辞を述べた。

2013年8月22日・23日、「湯布院映画祭」で音楽を担当した作品および出演した作品が特集上映された。上映後は阿木と共にシンポジウムに参加。ライブ&トークショーで映画にまつわる9曲を披露した。

2018年1月5日には他のタレントとともに、当時の内閣総理大臣安倍晋三と会食をおこなった[17]

2023年デビューから50周年を迎えるのを記念して「宇崎竜童 50th anniversary 弾き語りLIVE 2023 JUST GUITAR JUST VOCAL」を2月18日茅野市民館を始め、2月26日横浜市市民文化会館関内ホール、5月13日市川市文化会館で開催[18]
人物

極度のスポーツ嫌い。体を動かすのも嫌なタチで、わずかな移動もすぐに乗り物に頼る。それを反省し、2・3箇所のスポーツクラブの会員になるが「わざわざ疲れるところ(スポーツクラブ施設)への移動も疲れるし面倒」と億劫な気持ちが先立ち、いずれもわずか1日で行かなくなった。

学生時代のファッションは、アイビールックだった。

夫人の阿木燿子のことは学生時代から、本名である「広子さん」と呼んでいる。

下戸であり、大の甘党である。特に饅頭やケーキなどには目がない。それに対し、夫人の阿木は酒好きで強いと有名である。晩酌をする妻の横で宇崎は茶を飲み、甘味に舌鼓を打つことも珍しくないという。

俳優業について、宇崎は自身を役者とは思っていないと述べており、自分では余計な考えを持たないことで、素直に監督のイメージする役柄になることができると語っている[4]

30代前半ごろに映画撮影の際、耳栓を付け忘れての弾着の発破によって難聴を患った[19]。現在は補聴器を使用しながら作曲などをこなしている。
エピソード

友人の占い師が「木村だと業界で生きていけないだろう」ということで、色々な占いの結果、「宇崎」の姓をもらった[20]

御堂筋ブルースバンドと共演し、CDも発売している[21]

毎年8月に静岡市清水区(旧・清水市)で開かれている「清水みなと祭り」のイベント「港かっぽれ総おどり」において要望に応える形で、宇崎が「港かっぽれ?KAPPORE FUNK」を1987年に作曲し提供した[22]。これ以降、毎年みなと祭りの時期には清水を訪れ、地元の住民らと交流を続けている[22]

幼少期に宝田明のファンであった姉に連れられて映画『ゴジラ』(1954年)を観たが、あまりの怖さに夢にまで見てしまい、ゴジラ映画は観ないと決めたという[3]。後年、俳優として『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001年)に出演したが、その後も同作品以外は観ていないと述べている[3]
キャロルとつなぎ

矢沢永吉率いる「キャロル」と「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」は、デビュー時期は異なり、キャロルが先輩だった。このデビュー時期の差が宇崎を悩ませた。宇崎らも当初は皮ジャンを着ていたが、キャロルが大々的に売り出されると「キャロルの物真似」と批判が相次ぎ、やむなく皮ジャンでないものを探して、たまたま「つなぎ」に行った。「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」が出るタイミングで「キャロル」が華々しく解散。「矢沢永吉って人間には、常に先に行かれたって気があった」と話している。宇崎と矢沢は、お互いを敵対的なライバルと見ていたという。

矢沢永吉とキャロルについて宇崎は「自身は徒党を組むほうでやり方は違うが、矢沢は横縦つながり持たずに一匹狼。ロック・フェスティバルにも出ないし自力であそこまで行けたのは立派だと思う。彼はロックンロールの中で確立しているけど、ぼくはロックンロールよりも、少し広いところで商売している。言ってることを行動に結びつけて実績を作る?それは認めるけど、ぼくは体質的にダメ」などと話している[23]
交友・友人関係

梶芽衣子と友人だった。

また、一時は数々のレースに出場したり、友人の映画監督高橋伴明根津甚八らとツーリングチームを結成するほどバイク熱が高まっていたが、生来の飽き性のためバイクもあっさりと興味が薄れてしまい、現在はバイクよりも自転車を使用する方が多いという。

所ジョージの芸名の名付け親であり、所は宇崎の下で付き人ボーヤ)をしていた。所の歌『化けて出ている』(『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』のパロディ)にゲストとして参加している。

鈴木雅之はデビュー前から宇崎のファンであり、鈴木がグループでの活動時から宇崎と親交がある。宇崎自身も、テレビでの共演や、鈴木のライブにゲスト出演したことも何度かあり、鈴木のCDをいくつか持っている。

ジャズ・ヴァイオリニスト寺井尚子とも交流があり、november eleventh1111でのライブなど何度もセッションを重ねている。

サザンオールスターズ桑田佳祐は宇崎のファンを公言しており、1990年の著書で歌謡曲の衰退を憂いた際に「あんなに大好きだったのに、俺の中での愛すべき歌謡曲は75年のダウン・タウン・ブギウギ・バンド『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』以降、ほとんど出てないですね」と発言している[24]。なお、宇崎は原由子に「うさぎの唄」を提供している。サザンの楽曲「Hey! Ryudo!」のモデルであり、「ごめんねチャーリー」の歌詞にも登場する。なお、桑田はデビュー前に宇崎にあいさつをしたことがあり、デモテープを渡したものの、「言葉のわからないロックは嫌いだ」と言われ突き返されたというエピソードを著書で語っている[25]。ただし、スージー鈴木の著書「サザンオールスターズ 1978-1985」(2017年 新潮新書 P33)には宇崎がこの発言をしたことを否定していたという趣旨の記述がされている。

1980年の著書『突っ張って生きてみないか―俺たちの明日はあっちだ!』では同業のミュージシャンをこき下ろしている[26]。書籍の出版が1980年で、俎上に上げられたミュージシャンは、今日の一般的評価とはあるいは異なり、当時のまだ評価が定まっていないであろう時期に宇崎がどういう感想を持っていたか面白く、さだまさしを「声が嫌い。あれはウソの声。女にうけようという媚を感じる。あいつの歌って何の影響力も持たないんじゃないかな。矢沢と比較するとよく分かるよ」などと、松山千春を「あいつの作品や歌い方から考えると大嫌いなタイプ」などと、河島英五を「『酒と泪と男と女』は俺の最も嫌いな曲だな。彼の歌は、人を奈落の底まで連れて行って『ハイ、サヨナラ!』みたいな印象。


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