スプートニク1号以前、平均的なアメリカ人は合衆国が科学技術のあらゆる分野で世界に優越していると信じていたが、人工衛星技術は経済活動や軍事用途に応用できるため、先を越されたアメリカの国内ではパニックが発生し、政治論争も引き起こした。一方、スプートニクの成功はソ連において、自国の科学力や技術力を国民に示す重要な機会となり、大いに国威が発揚された。
ソ連において、スプートニク打ち上げとそれに続く宇宙開発計画は大衆の非常な関心を巻き起こした。壊滅的な独ソ戦から復興したばかりのソ連にとって、スプートニクは新しい時代における技術力の挑戦の成果として国民を勇気付ける重要な意味を持っていた[2]。フォン・ブラウンのライバルで、R.7ロケットの設計者・開発責任者であり後にA1ロケットも設計したセルゲイ・コロリョフは、人工衛星にとどまらず月にコスモノートを送り込むことを目標としていた。
スプートニクに対抗して、アメリカは技術的優位性を取り戻すためのあらゆる努力をすることになる。フォン・ブラウンを超える人材を生み出すため、数学など初等科学教育を充実させたことなどがその一環である[3]。アメリカの蒙ったショックやそれに対する一連の政策は、現在[いつ?]ではスプートニク・ショック(スプートニク危機)と呼ばれている。ジョン・F・ケネディ政権下のリンドン・ジョンソン副大統領はアメリカの一連の政策努力の動機について次のように語った。世界の目から見れば、宇宙での1番乗りは全てにおいて1番ということだ。宇宙での2番乗りは、何事においても2番手ということなのだ[4]。
ソ連のスプートニク成功に落ち込み、恐怖におびえたアメリカの大衆は、次第にアメリカの宇宙開発計画に重大な関心を示すようになった。児童や学生はロケット打ち上げが続くのを見守り、ロケットの模型作りは人気のある娯楽になり、テレビ番組やファッション、デザイン、ロードサイドの広告看板などにもロケットブームや宇宙ブームが波及した。1960年代には「スペースエイジ」を反映した銀色のメタリックな商品やデザインが席巻した。一方、巨額の宇宙開発を不安視する声も起こったが、ケネディ大統領は国民を勇気付けるため、「宇宙開発を国として支援し、数百万ドルから数千万ドルの巨費を既存兵器の増産や貧困対策に充てた方がいいのではないか、という全米に広がる懐疑論に対し勝利するつもりだ」と演説した。ウィリアム・ヘイワード・ピカリング、ジェームズ・ヴァン・アレン、ヴェルナー・フォン・ブラウンがNASAの記者会見でエクスプローラー1号の模型を掲げている
スプートニク1号の打ち上げから4ヶ月後、1958年、アメリカは陸軍弾道ミサイル局により最初の人工衛星、エクスプローラー1号を打ち上げた。しかし同じころ、フロリダ半島のケープカナベラル空軍基地では衛星ヴァンガードTV3を搭載した海軍のヴァンガードが爆発し続く打ち上げも失敗するなど、相次ぐロケット打ち上げの失敗という深刻な事態が起こっていた。
これら最初期の人工衛星は、すでに科学探査目的で打ち上げられていた。スプートニク1号もエクスプローラー1号も、国際地球観測年(1957年 - 1958年)のそれぞれの国の観測事業の一環として行われた。スプートニクは大気圏上層部の空気密度を測定し、エクスプローラー1号の飛行観測データからジェームズ・ヴァン・アレンは地球を取り囲むヴァン・アレン帯を発見した。
衛星通信エコー2号
史上初の通信衛星、プロジェクト・スコア (Project SCORE、Signal Communications Orbit Relay Equipment) は1958年12月18日に打ち上げられ、アイゼンハワー大統領のクリスマス・メッセージを全世界に中継した。その他の特筆すべき、宇宙開発競争から派生した衛星通信の例には以下のようなものがある。 アメリカは初の静止衛星、シンコム3号
1960年、エコー:世界初の受動型通信衛星
1962年、テルスター衛星 (Telstar):世界最初の能動型通信衛星
1972年、アニク1号 (Anik 1):カナダ初の国内用通信衛星
1974年、WESTAR:アメリカ初の国内用通信衛星
1976年、MARISAT:最初の携帯端末用通信衛星
その他特筆すべき衛星
さらなるソビエトの成功:宇宙に動物と人間を送る