宇宙戦艦ヤマト
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松本は、キャラクターやメカのデザインをするとともに、『新選組血風録』を元に若者の集団劇を構成した[21][22]

一説では、『セクサロイド』に感銘した西崎が松本にデザイン監修を持ちかけたところ、「全てを任せてもらえるのでなければ」といったん断られたが、上記のように山本が離脱したため、西崎が松本の条件を受け入れることになったとされている[20]。これについて西崎は1978年のエッセイで、『セクサロイド』で機械と人間がうまく共存している描写に共感を覚え、また同作における女性のイメージが自分の理想像になったと述べている[8]
放映の決定

西崎はテレビ局へ企画を持ち込み、1974年8月に読売テレビに売り込むためのパイロットフィルムが制作された[23]。こうして『宇宙戦艦ヤマト』の放映枠は日本テレビ系の日曜19時半に決まった。企画当初は虫プロでのアニメ制作が予定されていたが、虫プロは倒産し[24]、本作はオフィス・アカデミーで企画製作を行うこととした。なお、『宇宙戦艦ヤマト』の企画は西崎プロデューサーが在籍していた瑞鷹で行われ、フジテレビ系の裏番組『アルプスの少女ハイジ』が瑞鷹の製作番組だったため、道義上の問題から、別会社での製作になったのだという瑞鷹の高橋茂人の見解もある[25]

なお、当初の企画書では全52話だったが、放送決定時には全39話に短縮された[26]

『ハイジ』の裏番組になったため『ハイジ』の視聴者である幼児をターゲットとせず、本作は『ルパン三世(旧)』『ゼロテスター』と同じく中学生以上を取り込むことになった[27]
制作体制

西崎義展をプロデューサーとし、監督は松本零士(絵コンテ・美術・設定デザインも担当)、演出は石黒昇が担当。松本のキャラクター原案を元にしたキャラクターデザインは岡迫亘弘。SF設定は豊田有恒。スタッフの多くが虫プロダクション(旧虫プロ)の出身者により占められた[28]。山本暎一、藤川、宮川、石黒昇などのメインスタッフは前年の西アプロデュースの虫プロ作品『ワンサくん』から続投である[29]

演出の石黒昇は、アニメに初参加だった監督の松本零士をサポートし、絵コンテを全てをチェックして、西崎と松本のイメージを画面作りに反映する演出作業を行った。石黒はSF好きということもあり、無重力での爆発などヤマト独特の爆発フォルムを産み出したほか、様々な自然現象のエフェクトアニメーションにも手腕をふるった[30][31]。作画面では、岡迫と芦田豊雄の虫プロ系と、小泉謙三のスタジオメイツと白土武タイガープロダクションと主に東映動画(現・東映アニメーション)の仕事を主にしていた作画プロダクションに二分された。そのため、作画監督によってキャラクターの顔が異なり、そのことは逆にアニメファンにアニメーターの個性を認識させる一因となった[32]。オープニングやバンクのヤマトの作画は泉口薫が担当した[33]

構成と監修でクレジットされている映画監督の舛田利雄は、西崎プロデューサーに監督とストーリーの監修を依頼されたが同時期に既に制作に入っていた東宝映画『ノストラダムスの大予言』の仕事のため、企画会議に3度出席しただけで実際にはテレビシリーズには直接タッチしていない[34]

初期の企画担当者で基本設定を考案した豊田有恒は、裏番組の『猿の軍団』の原作者の1人となったことから、脚本は執筆せず、監修という立場でSF設定の助言をするにとどまった[35]

企画段階から参加して企画書をまとめた山本暎一は「宇宙戦艦ヤマト」のロゴをデザイン。一旦は別の仕事の海外取材をしていたが、西崎プロデューサーの要請で復帰。各話のラフを担当した上に脚本を執筆してヤマトを人間ドラマ中心にシフトさせた他、脚本と絵コンテのチェックの役目を負った[36][37][38]

富野喜幸安彦良和らが制作スタッフとして参加しており、主に絵コンテを担当した。ただし富野は「ヤマト」制作への参加は当初から乗り気ではなく、強引に発注された絵コンテのストーリーが気に入らず内容を改竄して、参加は第4話のみに留まる。西崎主導の作品と分かって縁を切るために喧嘩を売ったのだと富野は自著で回想した[39][40]。ただし富野はプロデューサーとしての西崎については評価しており、『機動戦士ガンダム』を制作した理由もライバルとして評価する西崎を打倒するため、ロボットものを使ってでもヤマトを潰すためだったと公言している[41][42]

なお、監督については、クレジットされていた松本零士ではなく、実質的には、製作総指揮をとっていた西崎義展だった。三共と東北新社のパチンコの訴訟で、東京地方裁判所は各証拠に基づいて「本件映画の監督は、映画における表示では補助参加人P1とされていたが、その制作に当たっての実質的な監督業務は、P2が行った」という「当裁判所の判断」を下している[43]。松本自身も、著作者人格権裁判の後、2004年に西崎と交わした和解書で自身は「総設定・美術・デザイン」の担当であり、「監督」は西崎であったことを確認している[44]

音楽面では、音楽とストーリーの融合性も当初から重視していた西崎は、『ワンサくん』で組んだ宮川泰を引き続き起用し、山本暎一と相談しながら、迫力あり、かつ番組の基本テーマを強調するような音楽を製作するよう依頼した[8]。西崎の強い意向で、フルオーケストラ(第1作は正確にはビッグバンド型式)をバックにした主題歌や楽曲が宮川泰の手で作曲された。なお、『ヤマト』以前は予算の制約からこのような例は多くなかった。本作から、アニメ音楽のサウンドトラックはオーケストラが増えて、ビデオがまだ普及していない時代において音楽編とともにドラマ編がリリースされていた[45]
制作状況

制作スタジオは広く、スタッフの質量は通常のテレビアニメなら4シリーズ分が制作できるだけの人材が投入されたが、絵コンテで参加した安彦良和は西崎義展による会議の連続でスケジュール管理が破綻していたと証言している[46]。そのため、現場はかなり過酷な環境であったと言われ[47]、打ち切りは低視聴率のせいではなく、放送スケジュールに間に合わせてフィルムを納品できなくなったため、西崎の側から降りたのではないかと安彦が推測するほどであった[46]。映像が間に合わず、シナリオだけで録音をしたという声優の証言もあり、当初加藤三郎役に起用されたキートン山田がシナリオだけの録音かつ現場の資料が乏しかった事から役が掴めずに本人曰くニヒルな悪役風の演技をしてしまい次週から新たに神谷明が起用されて降板させられたというエピソードがある[48]。作中の七色星団の戦いは、「タイガープロ(作画プロダクション)をつぶしかねないほどの日程(9人の原画マンで50日)と描きこみが行われた」とする当時の同プロダクション代表・白土武の証言もある[49]。要因として、西崎の会議主義のために会議が多く、製作現場で描く時間がなかったことが挙げられている[46][47]。後年に徳間書店から発売されたロマンアルバムなどの資料によれば、会議中に出たアイデアを説明するために作画した絵がそのまま採用されたと松崎健一は語っている[50]

なお、西崎は大塚康生に作画監督として本作に参加しないかと誘ったことがあるが、「戦艦が空を飛ぶというのが理解できない」として即座に断られている。


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