宇宙戦艦ヤマト
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豊田案の宇宙船は、小惑星そのものにエンジンを組み込んだもので、「岩石宇宙船イカルス」と呼ばれていた[13]。乗員も世界各国から集まる国連形式で構想され、名前や性格などの素案も作成された。その後、岩石宇宙船の内部に戦艦が内蔵された「アステロイドシップヤマト」なるアイデアに変更された。いざという時には岩盤を砕いてアステロイドリングにするという設定の名残が本編に見られる。戦艦は「三笠」のイメージから「長門」に寄っていき、長門ではネームバリューが低いことから「大和」でいいだろう、という話になった[14]。デザインはクリスタル・アート・スタジオの松崎健一が行い、企画書(後述)に描いたのは背景監督の槻間八郎だった[15]

その後、元虫プロの作家の石津嵐、脚本家の藤川桂介、イラストの斉藤和明、背景美術の槻間八郎が加わり検討が繰り返された結果、敵はコンピュータからラジェンドラ星人に変わり、放射能汚染された地球を救うためにヤマトが放射能除去装置を求めてイスカンダル星を目指すという大筋が完成した。ラジェンドラとの激戦や乗組員の反乱により、1年後に生きて地球に帰還するのは主人公「小竹忍」のみという内容で、この時点でワープ航法や波動砲といったヤマトを象徴するギミックも考案されている。

1973年夏の終わり頃までに『宇宙戦艦ヤマト』の名を冠した企画書[16]が完成。全55ページにおよぶ同企画書は、『ポセイドン・アドベンチャー』や『日本沈没』に触れる導入部から始まり、全52話のプロット、ヤマト艦内の命令系統図、ヤマト本体のスペック、イスカンダル到着までの日程・行程、乗組員の制服・武器、様々な惑星・異星人・宇宙船などに関する諸設定をイメージ・イラスト付きでまとめていた[17]

1974年の4月頃になって、松本零士がデザインのスタッフとして参加依頼を受けた。これは、設定制作の野崎欣宏の推薦によるものだった[6]。既に『宇宙戦艦ヤマト』のタイトルも読売テレビでの放映も決定していた段階での参加だったが[18][19]、結果的にキャラクターや個々のストーリー作りなど作品制作に深く関わるようになる。松本は、上記の1973年の企画書にあったキャラクター設定・メカ設定を一新し、1974年5月21日に基本ストーリーの初稿を執筆した。「ガミラス」という名称が初めて使われたのも、この稿である[20]

さらに監督を務める予定だった山本暎一が、他の仕事のため1974年6月末にヤマトから抜けることになったことにより、松本が石黒昇のサポートを受けながら監督も務めた[6]。松本は、キャラクターやメカのデザインをするとともに、『新選組血風録』を元に若者の集団劇を構成した[21][22]

一説では、『セクサロイド』に感銘した西崎が松本にデザイン監修を持ちかけたところ、「全てを任せてもらえるのでなければ」といったん断られたが、上記のように山本が離脱したため、西崎が松本の条件を受け入れることになったとされている[20]。これについて西崎は1978年のエッセイで、『セクサロイド』で機械と人間がうまく共存している描写に共感を覚え、また同作における女性のイメージが自分の理想像になったと述べている[8]
放映の決定

西崎はテレビ局へ企画を持ち込み、1974年8月に読売テレビに売り込むためのパイロットフィルムが制作された[23]。こうして『宇宙戦艦ヤマト』の放映枠は日本テレビ系の日曜19時半に決まった。企画当初は虫プロでのアニメ制作が予定されていたが、虫プロは倒産し[24]、本作はオフィス・アカデミーで企画製作を行うこととした。なお、『宇宙戦艦ヤマト』の企画は西崎プロデューサーが在籍していた瑞鷹で行われ、フジテレビ系の裏番組『アルプスの少女ハイジ』が瑞鷹の製作番組だったため、道義上の問題から、別会社での製作になったのだという瑞鷹の高橋茂人の見解もある[25]

なお、当初の企画書では全52話だったが、放送決定時には全39話に短縮された[26]

『ハイジ』の裏番組になったため『ハイジ』の視聴者である幼児をターゲットとせず、本作は『ルパン三世(旧)』『ゼロテスター』と同じく中学生以上を取り込むことになった[27]
制作体制

西崎義展をプロデューサーとし、監督は松本零士(絵コンテ・美術・設定デザインも担当)、演出は石黒昇が担当。松本のキャラクター原案を元にしたキャラクターデザインは岡迫亘弘。SF設定は豊田有恒。スタッフの多くが虫プロダクション(旧虫プロ)の出身者により占められた[28]。山本暎一、藤川、宮川、石黒昇などのメインスタッフは前年の西アプロデュースの虫プロ作品『ワンサくん』から続投である[29]

演出の石黒昇は、アニメに初参加だった監督の松本零士をサポートし、絵コンテを全てをチェックして、西崎と松本のイメージを画面作りに反映する演出作業を行った。石黒はSF好きということもあり、無重力での爆発などヤマト独特の爆発フォルムを産み出したほか、様々な自然現象のエフェクトアニメーションにも手腕をふるった[30][31]。作画面では、岡迫と芦田豊雄の虫プロ系と、小泉謙三のスタジオメイツと白土武タイガープロダクションと主に東映動画(現・東映アニメーション)の仕事を主にしていた作画プロダクションに二分された。そのため、作画監督によってキャラクターの顔が異なり、そのことは逆にアニメファンにアニメーターの個性を認識させる一因となった[32]。オープニングやバンクのヤマトの作画は泉口薫が担当した[33]

構成と監修でクレジットされている映画監督の舛田利雄は、西崎プロデューサーに監督とストーリーの監修を依頼されたが同時期に既に制作に入っていた東宝映画『ノストラダムスの大予言』の仕事のため、企画会議に3度出席しただけで実際にはテレビシリーズには直接タッチしていない[34]

初期の企画担当者で基本設定を考案した豊田有恒は、裏番組の『猿の軍団』の原作者の1人となったことから、脚本は執筆せず、監修という立場でSF設定の助言をするにとどまった[35]

企画段階から参加して企画書をまとめた山本暎一は「宇宙戦艦ヤマト」のロゴをデザイン。一旦は別の仕事の海外取材をしていたが、西崎プロデューサーの要請で復帰。各話のラフを担当した上に脚本を執筆してヤマトを人間ドラマ中心にシフトさせた他、脚本と絵コンテのチェックの役目を負った[36][37][38]

富野喜幸安彦良和らが制作スタッフとして参加しており、主に絵コンテを担当した。ただし富野は「ヤマト」制作への参加は当初から乗り気ではなく、強引に発注された絵コンテのストーリーが気に入らず内容を改竄して、参加は第4話のみに留まる。西崎主導の作品と分かって縁を切るために喧嘩を売ったのだと富野は自著で回想した[39][40]。ただし富野はプロデューサーとしての西崎については評価しており、『機動戦士ガンダム』を制作した理由もライバルとして評価する西崎を打倒するため、ロボットものを使ってでもヤマトを潰すためだったと公言している[41][42]

なお、監督については、クレジットされていた松本零士ではなく、実質的には、製作総指揮をとっていた西崎義展だった。三共と東北新社のパチンコの訴訟で、東京地方裁判所は各証拠に基づいて「本件映画の監督は、映画における表示では補助参加人P1とされていたが、その制作に当たっての実質的な監督業務は、P2が行った」という「当裁判所の判断」を下している[43]。松本自身も、著作者人格権裁判の後、2004年に西崎と交わした和解書で自身は「総設定・美術・デザイン」の担当であり、「監督」は西崎であったことを確認している[44]


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