宇宙からのメッセージ
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岡田社長は当時、年四本の一本立て興行および、760人いた東映の西撮影所の人員を400人まで減らす配置転換を実施し[15][16]、自社製作を減らして、その不足分を外部提携(外部活用)[17]で補おうとし[15]、外部提携を積極的に進める方針を打ち出していた[14][15][17]角川映画オフィスアカデミーとの提携の他、テレビ局関係との提携として製作されたのが読売映画社との提携作『新・巨人の星』『BIG-1物語 王貞治』で[15]、他にテレビ局との合作として1977年秋に企画に上がったのが『宇宙大戦争』だった[15][18]。岡田は著書で『宇宙からのメッセージ』の製作にゴーサインを出したのは「渡邊クン(渡邊亮徳)が東北新社植村伴次郎さんを巻き込んで、東映が手がけたことのないジャンルに挑戦したい」「(渡邊の)テリトリーとするテレビやマーチャンからの収入、それと海外で必ず売れます。売ります」というから、その情熱を買って、新境地開拓の意味もあって製作を決断したと書いている[9][19]。1973年ごろから[4][20]「広大な宇宙を舞台に大チャンバラ映画をやってみたい」と夢を膨らませていた深作欣二[20]渡邊亮徳テレビ事業部長をヘッドとする平山亨プロデューサーなど、宇宙SFプロジェクトチームがドッキングし、「やるからには世界に通用する一級のSF映画に仕上げる」と岡田社長が決断し、GOサインを出した[20]。『宇宙からのメッセージ』の実質的な始まりはここからである。平山が親交が深かった伊上勝に今度は『惑星大要塞』の題名で脚本を依頼[9]。一時使用された『惑星大要塞』や『宇宙大要塞』という仮タイトルは後述する1977年大晦日[21]日本語タイトル一般公募の中にあったもの[22]。1977年11月の文献に『遊星からのメッセージ』と書かれたものがある[14]。より大きな特撮ステージが必要と判断され、東映東京撮影所製作の予定が東映京都撮影所へ変更された[9]。東映京都の大作となったことで岡田社長から「監督を深作欣二に代えろ」と指示が出て[9]、深作は『柳生一族の陰謀』撮影中に監督オファーを受け[1]、佐藤肇から深作に監督が交代し、深作が伊上脚本を一蹴、『柳生一族の陰謀』で組んだ松田寛夫に脚本を交代させた[9]。またすぐ作れということで、テレビ部の平山プロデューサーだけでは手に負えないと、岡田裕介がプロデューサーとして参加[23]。岡田は『動乱』(1980年)を準備中であったが[24]、途中参加ながら本作品が東映での初プロデュース作となる[23][24]。1978年のゴールデンウィーク映画として、1977年秋に本作品の制作が正式に決定した[7][25]。邦題より海外用タイトル「Message from Space」が先に決まった[22]
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