宇多天皇
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また譲位直前の除目菅原道真権大納言に任じ、大納言で太政官最上席だった時平の次席としたうえで、時平と道真の双方に内覧を命じ、朝政を二人で牽引するよう命じた[13]。しかしこの人事は権門の公家には不評で、公卿が職務を拒むという事件に発展した。道真は宇多に願ってかかる公卿らに出仕を命じてもらい、ようやく新政がスタートした。
昌泰の変

宇多は譲位後も道真の後ろ盾となり、時平の独走を防ごうとしていたが、一方で仏道に熱中し始めた。昌泰2年(899年)10月24日には出家し、東寺で受戒した後、仁和寺に入って法皇となった。さらに高野山比叡山熊野三山にしばしば参詣し、道真の援助を十分に行えなくなった。詳細は「昌泰の変」を参照

昌泰4年(901年)正月、道真は宇多の子で自らの婿でもある斉世親王を皇位に即けようとしていたという嫌疑で、大宰府へ左遷された。この知らせを受けた宇多は急遽内裏に向かったが、宮門は固く閉ざされ、その中で道真の処分は決定してしまった。日本史学者の河内祥輔は、宇多は自己の皇統の安定のために醍醐の皇太子決定を急ぎ、結果的に当時男子のいなかった醍醐の後継をその弟から出すことを考えるようになった。加えて醍醐が許した基経の娘・藤原穏子の入内にも反対したために、これに反発した醍醐が時平と図って法皇の代弁者とみなされた道真を失脚させたという説を提示している。

延喜元年(昌泰4年を改元)12月13日、宇多は受戒の師を益信として東寺で伝法灌頂を受けて、真言宗阿闍梨となった。これによって宇多は弟子の僧侶を取って灌頂を授ける資格を得た。宇多の弟子になった僧侶は彼の推挙によって朝廷の法会に参加し、天台宗に比べて希薄であった真言宗と朝廷との関係強化や地位の向上に資した。そして真言宗の発言力の高まりは宇多の朝廷への影響力を回復させる足がかりになったとされる。延喜21年(921年)10月27日に醍醐から真言宗を開いた空海に「弘法大師」の諡号が贈られているが、この件に関する宇多の直接関与の証拠はないものの、醍醐の勅には太上法皇(宇多)が空海を追憶している事を理由にあげている[14]
晩年

宇多の動きを牽制し続けていた藤原時平が延喜9年(909年)に没し、宇多に近い弟の忠平が実権を握ると、宇多の朝廷への影響力を回復させることになる。延喜15年(915年)、忠平の嫡男実頼(後の関白)が元服した際に醍醐に対して実頼への叙爵を指示している[15]。その後も忠平を介する形で天皇への働きかけを行っている[16]

延喜13年3月13日(913年4月22日)には後院亭子院で大掛かりな歌合「亭子院歌合」を開いた。これは国風文化の盛行の流れを後押しするものとなった。延喜11年(911年)6月15日、亭子院の水閣を開いた時、臣から酒豪を選んで宴に招き、酒を賜り酒量を競わせた。(亭子院酒合戦[17]

醍醐の健康状態が悪化していくと、宇多がその代理として政務を代行する場面が登場するようになる。そして、延長8年(930年)に醍醐が崩御すると、「天皇の遺詔」があったとして新帝朱雀天皇の摂政となった藤原忠平の要請を受ける形でその後見となっている[18]

承平元年7月19日(931年9月3日)に崩御。宝算65。日記に『宇多天皇御記』がある。
陽成との関係

陽成上皇との関係は微妙だった。宇多は皇位に即く前に侍従として陽成の側に仕えており、神社行幸の際には舞を命じられたこともあった[19]。『大鏡』には、陽成が宇多のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話[20] が残っているが、陽成が復位を画策しているという風説は宇多を悩ませた。

保延年間に書かれた『長秋記』(保延元年6月7日条)によれば、陽成上皇が宇多天皇の内裏に勝手に押し入ろうとしたために、上皇といえども勅許なく内裏に入る事は罷りならないとこれを退けたが、後に昌泰の変が起きた際には醍醐天皇に菅原道真の左遷を止めさせようとして内裏に入ろうとした宇多上皇自身がこの先例を盾にそれを阻まれたという記載がある。

ただし、宇多上皇が内裏に入るのを拒まれたのは、薬子の変の教訓から成立した原則によるもので、陽成・宇多両上皇のケースはこの原則に基づいたものとする考えもある[21]
系譜

宇多天皇の系譜

                 

 16.
第50代 桓武天皇(=12)
 
     

 8. 第52代 嵯峨天皇 
 
        

 17. 藤原乙牟漏
 
     

 4. 第54代 仁明天皇 
 
           

 18. 橘清友
 
     

 9. 橘嘉智子 
 
        

 19. 田口三千媛
 
     

 2. 第58代 光孝天皇 
 
              

 20. 藤原末茂
 
     

 10. 藤原総継 
 
        





 5. 藤原沢子 
 
           

 22. 藤原雄友?
 
     

 11. 藤原数子 
 
        





 1. 第59代 宇多天皇 
 
                 





 12. 第50代 桓武天皇(=16) 
 
        





 6. 仲野親王 
 
           

 26. 藤原大継
 
     

 13. 藤原河子 
 
        





 3. 班子女王 
 
              













 7. 当宗氏 
 
           















系図

   

54
仁明天皇 

                 
              
55 文徳天皇     58 光孝天皇 人康親王 

                   
     
56 清和天皇 惟喬親王 59 宇多天皇 藤原基経妻 

                       
               
57 陽成天皇 貞純親王      真寂法親王
(斉世親王) 敦実親王 

                       

源清蔭
陽成源氏〕 源経基
清和源氏〕          源雅信
宇多源氏〕 

             
          
60 醍醐天皇  

   


后妃・皇子女


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