宇喜多秀家
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朝鮮出兵で悪化した財政を再建するため、領民に重税をしこうとして重臣の反発を招き、後述する御家騒動に繋がったとされている。

慶長3年(1598年)、日本に帰国し、秀吉から五大老の一人に任じられた。そして8月、秀吉は死去した。岡山城復元天主
宇喜多騒動

秀吉没後の慶長4年(1599年)、重臣だった戸川達安岡貞綱らが、秀家の側近の中村次郎兵衛の処分を秀家に迫るも秀家はこれを拒否。中村は前田家に逃れ、戸川らが大坂の屋敷を占拠する、いわゆる宇喜多騒動が発生した。秀家はこの騒動の首謀者を戸川達安としてその暗殺を図るが、秀家と対立していた従兄弟の宇喜多詮家(のちに坂崎直盛へ改名)が達安をかばって大坂玉造の自邸へ立て籠もるに至り、両者は一触即発の事態となる。騒動の調停は最初、越前敦賀城主の大谷吉継と、徳川家康の家臣である榊原康政が請け負ったが、康政は伏見在番の任期が終わっても居残り調停を続けた結果、国許での政務が滞ることになった。そのことで家康より叱責を受け、康政は国許へ帰ることになる。秀家・戸川らの対立は解消されず、吉継も手を引いた結果、家康が裁断し、内乱は回避された。戸川らは他家で預かり・蟄居処分となり、花房正成は宇喜多家を出奔した。この騒動で戸川・岡・花房ら(代替わりはしていたが)直家以来の優秀な家臣団や一門衆の多くが宇喜多家を退去することになり、宇喜多家の軍事的・政治的衰退につながった。なお、上記の三名はこの後、家康の家臣となっている。

宇喜多騒動にはさまざまな要因がある。まず、秀吉が没して世情が不安定であった。秀家が自身に権力を集中するため、宇喜多家の執政であった重臣長船綱直や宇喜多家家臣としては新参者の奉行人中村次郎兵衛らを重用することに対するほかの重臣達の不満といった家臣団の政治的内紛があった。宇喜多家では仏教日蓮宗徒の家臣が多かったが、秀家は豪姫がキリシタンであったことから、家臣団に対し、キリシタンへの改宗命令を出したことなどもある[注釈 2]
関ヶ原の戦い関ヶ原の戦いの宇喜多秀家陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町宇喜多秀家の旗印

秀吉没後、後を追うように豊臣秀頼の後見役だった義父の前田利家が慶長4年(1599年)に死去すると、豊臣家内で武断派の加藤清正福島正則らと、文治派の石田三成小西行長らとの派閥抗争が表面化した。これに乗じた五大老随一の実力者徳川家康が、豊臣政権下における影響力を強めることになった。そして清正ら武闘派七将による石田三成襲撃事件が勃発した際には、秀家は佐竹義宣とともに三成を救出した。

慶長5年(1600年)、家康が会津征伐のため出兵している機を見計らい、石田三成は毛利輝元を総大将として、家康打倒のために挙兵した。秀家は西軍の副大将として、石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発し、西軍の主力となる。伏見城の戦いでは総大将として参加し攻略、その後本隊と別れて伊勢国長島城を攻撃したのち、美濃国大垣城に入城し西軍本隊と合流した。関ヶ原の戦いにおいても西軍主力(西軍の中では最大の1万7,000人)として戦い、東軍の福島正則隊と戦闘を繰り広げた。しかし同じ豊臣一門である小早川秀秋が東軍につき、西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。

秀家が西軍決起の発案者であるとの説がある。石田三成が大谷吉継に協力を求める前の7月1日、秀家が豊国社で出陣式を早くも行っていることをその根拠とする。なお、この出陣式に高台院(ねね)は側近の東殿局(大谷吉継の母)を代理として出席させており、ともに戦勝祈願を行っている。これにより、高台院が東軍支持だったという俗説には、主に白川亨により疑問が提示されている[要出典]。
薩摩への逃亡と八丈島配流八丈島の宇喜多秀家の墓(東京都指定文化財)

関ヶ原の戦い後、宇喜多家は家康によって改易されたが、秀家は伊吹山中に逃げ込んだ。このとき、落ち武者狩り矢野五右衛門に遭遇するが、五右衛門は秀家を自宅に約40日もかくまった(五右衛門の子孫は屋敷のあった場所に現在も居住し記念碑が建っている)とする話が伝わっている。秀家は京の太秦に潜伏、京都所司代奥平信昌に発見されるが逃走に成功[9]。同じ西軍側であった島津義弘などを頼って薩摩国に落ちのび、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)にかくまわれた。後世の編である『常山紀談』では薩摩にのがれ剃髪して、成元さらに休復と号したとしている。このとき、秀家が島津氏に兵を借り、琉球王国を支配しようとしたという伝説が残っている。

しかし「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって家康のもとへ身柄を引き渡された。なお、身柄引き渡しの際に一緒についてきた家臣2名を島津家に仕官させるが、このうちの一人本郷義則は、薩摩の日置流弓術師範の祖、東郷重尚の最初の弓術の師匠となる。

島津忠恒ならびに縁戚の前田利長の懇願[注釈 3]により死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉される[注釈 4]。慶長11年(1606年)4月、同地での公式史上初の流人として八丈島へ配流となった[注釈 5]


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