黒田氏が豊前国へ入国してくると宮成公里の子・宮成公基は宮成公尚に大宮司を譲り、黒田長政に仕えて武士となった[2]。
公尚以降は宮成・到津両家が続き、近代に至った[2]。
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注釈
出典^ Reichsarchiv華族リストから。到津公誼が男爵となった。
^ a b c d e f g h i j k l m 『戦国人名事典 コンパクト版』、141 - 142ページ
^ a b 『八幡宮創祀の位置について』
^ 八幡宇佐宮御託宣集
参考文献
『戦国人名事典 コンパクト版』- 安部猛
『末広八幡宮社記』
『秋吉系図』
『八幡宮創祀の位置について』 - 中野幡能