孫運?
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1969年、経済部長の陶声洋がで急死すると、孫運?は経済部長に転任した。1970年には台湾は対外貿易で大きな発展をみたが、まもなく国際連合を脱退した政治情勢の変化と、1973年に発生した第一次オイルショックは台湾経済に深刻な打撃を与えた。孫運?は訪問団を率いサウジアラビアを訪問し、経済協力と引き換えに中東の石油資源の確保を図っている。しかし国際原油価格の暴騰は台湾の消費物価の急激な状況を招いた。
工研院と半導体計画

冷え込んだ台湾経済復活のため、1972年?経国内閣は一連の経済発展計画に着手、1973年には孫運?により韓国の「科学技術院」を参考に、官民資本により工業技術研究院を設立、規制緩和を実施し高待遇で海外で活躍する学者の帰国を推進した。当時立法院は工研院は政府が出資したものであるにもかかわらず財団法人化したことで管理権を有さないことに反対意見が相次いだが、孫運?は各方面との折衝の結果過半数をかろうじて確保し工研院の設立を実現させた。このことより孫運?を「工研院の父」[5] と称すこともあるCMOSが当時RCA計画の中で選定された移転技術。後の集積回路の主流技術を占めることとなる

1974年、孫運?は米国RCA研究室主任の潘文淵と協議を行った後、半導体産業を台湾における1970年代中期の基幹産業とし、工研院技術顧問委員会を設立、RCAより技術移転し集積回路の技術習得を決定した。この「RCA計画」には1,000万アメリカドルの資金が必要であり、当時の台湾経済には過度の負担になるとし反対意見もあったが、孫運?の政治力により計画は推進されていった[6]1977年、孫運?は国防部と協議し、新竹に科学園区の用地を取得した後、1980年代に完成した。新竹科工業園区が完成すると台湾は世界中での数少ない集積回路の生産地としての地位を獲得した。その後工研院と半導体産業は1980年代から2000年代の台湾国内産業の牽引役を果たした。
行政院長

1978年、行政院長であった?経国総統選挙に当選すると、孫運?は次期行政院長に抜擢された。行政院長に就任した孫運?は台湾の観光資源と天然資源の保護を提唱し、1979年4月には行政院院会で「台湾地区総合開発計画」を通過、玉山墾丁雪山大覇尖山太魯閣渓谷蘇花公路、東部海岸などを国家公園予定地に指定、内政部での積極的な処理を支持した。1980年、国家公園計画が初めて政府の重要政策に加えられ、345万の国家公園建設予算が付与された。内容は主に墾丁国家公園を計画の対象としたものであり、これは当時内政部長であった張豊緒が屏東県出身であり墾丁一帯を熟知するとともに、本人も自然保護に積極的であったことにもよる。墾丁国家公園1982年9月1日に、台湾初の国家公園として正式に設立された[7]

行政院長として孫運?の最大の試練は米台断交である。当時孫運?は愛国運動で民衆の米国政府への不満を和らげるとともに、海外渡航解禁を宣言していた時期である。新竹科学園区は米台断交の10日後に開園することから多くの海外在住の台湾人を帰国させることに成功し民心の安定に繋がった。同時に米国政府へ働きかけ1979年には台湾関係法を米国議会で成立させ、両国政府は断交後も実質的な関係を維持することとなった。

1979年美麗島事件が発生すると国民党政権は台湾の民主化勢力への弾圧が強まった。孫運?は技術官僚出身とは言え政治的混乱に巻き込まれることとなった。

1982年、経済発展に伴う貧富の差の拡大に対し、孫運?内閣社会基礎の構築と農民所得向上を政策に掲げ、200億元の資金を投入し農業従事者と非農業従事者の所得格差の均衡化と、農村福利厚生の整備により農業従事者の生活水準の向上を図った[8]。そして孫運?自身も積極的な視察活動を行い多くの民衆の支持を獲得した。

孫運?が行政院長に在職していた期間中、台湾の消費物価は安定し、国民所得は1977年の1,182元から1984年には3倍弱の3,134元に急速に増加させている。
晩年

脳溢血で倒れた後の孫運?は車椅子で時々公益活動や国民党の活動に参加する程度であったが、それでも董氏基金会の名誉顧問に就任している。また1996年には孫運?の古くからの同僚や部下と共に孫運?基金を設立、当初は優秀な公務員の表彰、後に公共政策の研究、シンポジウム、論文発表、出版事業などを行っている[9]

その政治的貢献の大きさから、行動に制限があり政壇への露出度が減少した孫運?であるが、国民党の各種選挙活動の中で重要な役割を果たす人物の一人であった。民進党への政権交代が行われた後も総統府資政に任ぜられ、このほか連戦による総統選挙でも孫運?は国民党党員であれば無条件で国民党候補を支持すると表明し、不自由な身体ながら選挙運動に参加し国民党への忠誠をアピールした。2005年以降は病状の悪化によって公の舞台に登場する回数が極端に減少し、2005年8月16日に行われた馬英九の国民党主席選挙当選証書の付与式典に出席したのが最後となった。

2006年1月30日、呼吸困難に陥った孫運?は病院に搬送され心筋梗塞、急性内臓疾患、急性肺水腫と診断、2月2日に一旦心停止したが、2月15日0時33分、台北市台北栄民総医院で93歳で逝去した。

2月25日、総統府は孫運?の葬儀を国葬とすることを発表、連戦を葬儀委員長とし国旗国民党党旗で包まれ出棺し、総統であった陳水扁、副総統であった呂秀蓮及び五院院長の参列の下葬儀が実施され、その後基隆市七堵の欣欣墓園に埋葬された。
注釈^ 『第一批異体字整理表』中で「?」は「?」の異体字とされているため、中華人民共和国では「孫運?」と誤記されることがしばしばある
^ 楊艾俐 『孫運?伝』(天下雑誌社 1989年4月10日)ISBN 9579079013
^ 予科3年および本科4年
^観光局日月潭国家風景区管理処 日月潭記事之三Archived 2007年12月18日, at the Wayback Machine.
^ 「沒有孫運?的邀請 張忠謀:1985不會回台!」,2006年02月15日,中広新聞
^曹興誠的霸氣 打造聯電的霸業,2006年01月01日,聯合新聞網
^台湾の国家公園:国家公園の認識 Archived 2006年11月10日, at the Wayback Machine.
^七十一年全国農業会議開幕式典祝辞,1982年6月21日
^孫運?学術基金会簡介

外部リンク

孫運?学術基金会

孫資政追思館

台達電子文教基金会紀念影片 - ウェイバックマシン(2007年12月12日アーカイブ分)

中華民国

先代
沈怡交通部長
第7代
1967年 - 1969年次代
張継正

先代
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1969年 - 1978年次代
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1978年 - 1984年次代
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