孫策はまず虞翻を豫章太守華?の元に送って投降させた。豫章南部の廬陵の太守を名乗っていた僮芝には新たな太守を派遣して対立させ、僮芝が病にかかった報を聞くと周瑜を送ってこれを壊滅させた。また、韓当・?欽・周泰らを県令に任命して抵抗勢力鎮圧に回らせ、呂範を?陽、周瑜を巴丘に派遣して抵抗勢力を鎮圧した。劉表の抑えとしては太史慈を豫章郡西部の都尉につけた。孫策はここに江東の五郡である江南の大部分をその支配下に治めた。 曹操は孫策懐柔のため、自分の姪を孫匡に嫁がせ、孫賁の娘を息子の嫁として迎えていた。しかし建安5年(200年)、孫策は曹操の主力が北の袁紹に向かっている隙を狙い、曹操の本拠である許都攻略を計画する[7]。ただし裴松之や孫盛によれば、孫策の本当の標的は許都ではなく、長江・淮水流域で非常に人望が厚くかねてから江南併合の野望を抱いていた陳登だったという。しかし孫策が単騎で外出した日、長江のほとりに潜伏していた許貢の客人3人と遭遇し、孫策は1人を射殺したが、残り2人の放った矢の一本が頬を貫いた。『三国志』討逆伝によれば、一族の陳?が揚州に侵攻した件で以前より孫策と対立していた陳登が報復として厳虎や許貢の残党を扇動し孫策の背後を突かせようとし、孫策はそれに怒り陳登討伐に向かったが途上で狩りの最中に許貢の残党に襲われた、とある。 重傷で死期を迎えた孫策は孫権を指名し、その補佐役として張昭を指名して26歳で死亡。死に際して、張昭ら幕臣には孫権の補佐を頼み、孫権には「兵を率いて戦場に駆け、天下の争いに与するような事においてはお前は俺には及ばないが、才能ある者を用い、江東を保っていく事については、お前の方が上だ」と、臣下の言を重んじ江東を固く事に意を注ぐよう言い残したとされる。 黄龍元年(229年)、皇帝となった孫権により、長沙桓王と諡された。孫権は建業にある朱雀橋の南に孫策の廟を建てた。 孫堅が帝号であるのに対して孫策が王号である理由は不明であるが、ともあれ孫権は孫策を懐かしんでいるようで、皇太子である孫和を派遣して桓王廟に参籠させたこと[8] および、赤烏3年(240年)に孫策の墓の再度整備の措置を施した。碑石には「大呉長沙桓王之墓 赤烏三年」との文字が刻まれている[9][10]。 おしゃれや笑話を好み闊達な性格であったと言われる。 郭嘉は「孫策は新たに江東を併呑したばかりですが、誅殺されたのはみな英雄豪傑であり、人の死力を得られる者たちでありました。しかし孫策は軽率で備えも無く、百万の軍兵があろうとも原野を独りで歩いているのと異なりません。もし刺客を潜ませていたならば、ただ一人を敵とするだけであります。こうしたことから私が観るに、必ずや匹夫の手で死ぬことでしょう」と評している。 陳寿は「孫策は傑出した英気を具え、その勇猛さと鋭敏さは並ぶ者がないほどであり、優れた人物を登用して用い、志は中国全土を圧倒するほどだった。しかし、孫策は軽佻果躁(=軽弾みで思慮が足りぬ)だったので、身を滅ぼしてしまった」と評している。
突然の死
人物
評価
家系図【孫呉王朝系図】(編集
(1)大帝孫権 宣太子孫登 孫英
孫慮 (4)末帝孫晧
(追)文帝孫和 孫謙
孫俊
魯王孫覇
斉王孫奮 豫章王孫?
(3)景帝孫休 汝南王孫?
(2)廃帝孫亮 梁王孫?
孫翊 孫松 陳王孫?
孫匡 孫泰 孫秀