孫権
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^ 『三国志』呉志 呂範伝によると、陽羨県長を守した時、私用した事があり、主財計を典らせた呂範に融通を求めたが、呂範は必ず上言した。当時はこれによって怨望された。後に孫権が事を統べるに及び、呂範は忠誠だとして厚く信任された。
^ 『呉録』によると、孫策の上表では、黄祖討伐の諸将の中で行建威中郎将周瑜、行征虜中郎将呂範、行蕩寇中郎将程普に次いで4番目として名が挙がっている。校尉としては首位に立った。孫氏の一族の中では列された唯一の人物でもある。
^ 『三国志』魏志 陳登伝によると、陳登は孫権の包囲に苦しみ、曹操に助けを求めた。
^ 『三国志』呉書 張紘伝によると、曹操は、家督相続の隙を攻めようとしたが、張紘に他人の喪に乗じることを諫められた。代わって曹操は懐柔政策を採り、官位を与えた。
^ 魯粛は孫権に「漢を復興することなどは無理なことであり、曹操もそう簡単には取り除くことが出来ません。北方の騒乱に乗じて黄祖・劉表を攻めて荊州を制圧し、長江を北岸として割拠してから、自ら帝王を名乗るべきです」と提案した。
^ 一緒に狩猟をするというのは、戦って雌雄を決するという裏の意味。
^ 『三国志』呉志 周瑜伝・『資治通鑑』によると、赤壁の戦いの前夜に、劉備は孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようとしたが、いずれも失敗に終わった。
^ 『輿地紀勝』卷三十三・『集古録跋尾』によると、孫権は鄂州で酒宴を開いたが、凱旋した家臣達を労り、花を散らす、黄色の花が雨のごとく散るようだった。現在も湖北省鄂州市黄石市などの市に「散花洲」と呼ばれる観光地が残っている。後世その地は散花洲と呼ばれるようになった。
^ 『三国志』呉志 周魯呂伝・程黄韓?周陳董甘凌徐潘丁伝・『晋書』によると、孫権は荊州南部の五郡を領有したとしている。一方『三国志』蜀志では、劉備は荊州南部の四郡を領有したとしている。
^ 『三国志』呉志 魯粛伝・『資治通鑑』によると、劉備は孫権に「私も劉璋殿も漢王室の流れを汲む身として、祖先の英霊におすがりし、漢王朝の再建を目指しております。今、劉璋殿に罪ありとのご糾弾を受けて、私も身もすくむ思いでありますが、攻略するなど思いも及ばぬことで、何卒寛大なご処分をたまわりたく、どうでもお聞き届けいただけぬとあらば、私は髪をざんばらにして山林に隠れ住むほかありません」と言った。
^ 『三国志』呉志 周魯呂伝・程黄韓?周陳董甘凌徐潘丁伝・『後漢書』『資治通鑑』『荊州志』によると、孫権の上奏で劉備は荊州牧に就任したとしている。一方『三国志』蜀志では、ほどなくして劉gが死去したために劉備は自ら荊州牧となった。
^ 『三国志』呉志 呉主伝・『江表伝』によると、秣陵に王者の気が見えたためだという。後に呉郡を訪問した劉備も同様の発言をしたため、孫権は賢者の考えることは同じなのだと喜んだという。一方『献帝春秋』では、孫権自身の意思で軍事的な理由から遷都を実施したとある。
^ 『三国志』呉志 魯粛伝によると、劉備が約束を守らないせいで、孫権はそれに怒った。『晋書』劉備が孫権を救援せず、益州に侵攻した。『四庫全書』援軍も得られず、孫権は塢を築いて曹操と対峙した。
^ 『三国志』呉志 甘寧伝・魏志 荀攸伝・『魏氏春秋』では建安19年-20年間(214年-215年間)、一方『資治通鑑』では建安18年(213年)、『太平御覧』では建安22年(217年)の出来事としている。
^ 『資治通鑑』では建安18年(213年)、一方『太平御覧』では建安22年(217年)の出来事としている。
^ 『三国志』呉志 呉主伝・周魯呂伝・程黄韓?周陳董甘凌徐潘丁伝・『元和郡県志』によると、建安20年(215年)、魯粛は益陽県で関羽を牽制し、一度も関羽に付け入らせなかった。
^ 『献帝春秋』・『建康実録』・『集解』によると、勇武と騎射を備えた紫髯将軍の姿は、張遼に深い印象を残したようだ。
^ 『三国志』呉志・『建康実録』によると、孫権が既に撤退すると、賀斉は孫権を船に迎え入れた。賀斉は孫権の安危を心配して、席を下りて涕泣した。孫権は指を噛んで血を出し、賀斉の涙を拭いて、彼の諫言を受け入れた。また、殿軍を務め凌統は帰ってきました。孫権は、凌統を手厚く看護させた。凌統は部下が戻っていないことに落涙した。孫権は袖でその涙を拭い「公績、故人は二度と戻らない。だが、私にはまだあなたがいる。それで十分だ」と慰めた。
^ 『三国志』呉志 呂岱伝によると、時期不明。一方『走馬長沙呉簡』・『長沙風土碑』・『紹熙長沙志』によると、建安21年(216年)で起こった事件。
^ 『三国志』呉志 呂蒙伝・周泰伝・徐盛伝・孫皎伝・『晋書』・『漢晋春秋』・『資治通鑑』・『方輿紀要』・『通典』・『冊府元亀』・『太平御覧』・『続漢書』・『道光巣県志』・『通志』・『刀剣注』・『宋書』・『清書』以上によると、孫権が勝利を収めた。一方『魏書』・『魏略』では、魏軍はこの戦争で多くの死傷者を出す大きな被害を受けること。また『通鑑』『集解』では、魏書は敗北には触れていない。
^晋書』による。なお『資治通鑑』では建安24年(219年)の出来事としている。
^ 『三国志』呉志 呉主伝 『三国志』魏志では、曹操が部下の提案に従い、使者を派遣して孫権に同盟を申し出た。『三国志』蜀志 関羽伝・『蜀記』によると、関羽は、孫権に江東を滅ぼすような暴言を吐いた。
^ 『三国志』呉志によると、その頃から、呂蒙の体調が悪くなり、孫権は迎えて内殿に置き、呂蒙の疾病を癒せる者を賜千金で募った。鍼を加える時、孫権はこの為に惨憺となった。しばしばその顔色を見ようとしたが、又た、気苦労させる事を恐れ、常に壁を穿ってこれを見、僅かでも食事ができているのを見れば喜び、左右を顧みて言笑したが、そうでなければ歎息として、夜も寐れなかった。
^ 『三国志』呉志によると、荊州に入る際、劉備の部将みなは孫権に帰順したが、潘濬だけは病気を称して出てこなかった。孫権は人を遣って、潘濬の家にベッドを運び込んで、潘濬をそれに乗せて担いでこさせた。それでも潘濬はベッドの上に突っ伏して起き上がろうとせず、泣き続けたので、孫権は潘濬の字で呼びかけると帰付すべきであるという理由に説明した。そして手拭で彼のため涙を拭った。潘濬は心を打たれ、ベッドから離れて孫権に帰順した。
^ 趙咨が孫権に「北方を観たところ、魏が最後まで盟を守ることはできないでしょう。今日の計は、我が朝廷が漢四百の際(四百年続いた漢朝の後、最期の時)を継承し、東南の運に応じることです。年号を改めて服色を正し、そうすることで天に応じて民に順じるべきです」と進言した。
^ 『三国志』呉志 虞翻伝によると、呉王になったとき、祝いの宴会で大臣たちに酒を勧め、虞翻は床に酔い潰れたように見えたため孫権が通り過ぎたところ、その後平然と席に座り直した。虞翻が酔って無礼な行為した際\孫権は大いに怒り、かつて曹操が孔融を処刑した例を引き合いに虞翻を脅したが、大臣の劉基が理を尽くして諭した為に遂に虞翻を許した。孫権は、側近の者たちに対し、今後、酒の後に殺すと言っても、殺してはならないように、と言ったという。
^ 詳細は陸遜#逸話を参見。
^ 『三国志』呉志 周瑜伝・『江表伝』によると、孫権は即位の折、「周公瑾がおらねば私は帝位にはつけなかったのだ」と述懐している。帝位に即位できたのは周瑜のおかげだと述べた後、同意して周瑜を称賛しようとした張昭に対し「もしあの時、張公の(赤壁の戦いで曹操に降伏する)進言を聞いていたら、私は帝位に即位するどころか、今頃は乞食になっていた」と皮肉ると、張昭は酷く恥じ入ったという。
^ 『三国志』呉志 呂範伝によると、都が建業に戻った後に前年に没した呂範の墓を訪れ、「子衡(呂範の字)」と泣き叫んだという。
^ 『三国志』呉書 陸凱・弟陸胤伝による。なお『大越史記全書』では首謀者を記さず九真のみ郡名を挙げ、陸胤が到着して説得したことにより三万家余りが降伏したとなっている。
^大越史記全書』が引く『交趾志』によるとこの反乱平定後に趙嫗らが九真山を本拠として城や村を荒らし回ったため陸胤らに鎮圧されたという。趙嫗は後に反乱の中心人物として伝説化された。
^ 蘇洵の『諡法』によると、「大」という諡は、「天の法則に従って、を手本とした(則天法堯)」という意味を持つ。
^ 中華民国の学者の黎東方『細説三国』では、「あごが張って、口が大きく」は四方を安定させ、「瞳にはキラキラとした光があった」は活気を体現している。象徴を意味すると言われている。
^ 『三国志』呉志 呉主伝・『江表伝』によると、漢の劉?が16歳の孫権を見て、「自分が孫氏の兄弟を観たところ、中弟の孝廉(孫権)だけは形貌は奇偉で骨体は世のつねの人ではなく、非凡で高貴な位に上る相がある。また天寿も最も長いだろう」と言ったという話が残っている。『山陽公載記』によると、劉備は左右の者に謂うには 「孫車騎は長身足短だ。下位に甘んじる様子ではない(誰にも屈しない)。私は再び会う事はあるまい」。
^ 辛棄疾の『南郷子・登京口北固亭有懐』には「年少万兜? 坐断東南戦未休 天下英雄誰敵手 曹劉 生子当如孫仲謀」であり、また『永遇楽・京口北固亭懐古』には「千古江山 英雄無覓孫仲謀処」と歌われている。蘇軾は『江城子・密州出猟』でその武勇を「親射虎 看孫郎」と詠んだ。
^ ?媚とは、(美男子・女性・草花などが)美しくかわいい、なまめかしい、あでやかであるの意。
^ 胡昭荀爽・曹操・曹植孫皓傅玄・張昭・?康何曾衛覬杜預と共に三国時代の第三等の能書家として名前を挙げられている。
^ 三公は徳望の高い者に授けることが多く、賈?は不適任とされた。
^ 『魏略』によると、濡須口の戦いの際、孫権は曹操が出撃してこないのを見て自ら大船に乗って偵察に赴き、曹操はさかんにそれを射させた。矢は船にあたり、船の片側が矢の重みで傾くと孫権は船を迴らせ、逆舷にも敵の矢を浴び、船の均衡を保った。孫権は帰還すると楽隊に盛大に音楽を鳴らさせた。曹操は孫権の舟船・武器・軍隊が整然厳粛としているのを見てこれに感嘆し、「息子を持つなら孫権のような息子がいい」と周囲に語った。
^ 『呉志』諸葛瑾伝によると、孫権は諸葛瑾への手紙には、曹操の統率力を高く評価し、また曹丕は曹操より万事に及ばない、と書いたという。
^ 『太平御覧』巻341に引く『与?王書』によると、いつも諸葛亮にたくさんプレゼントをあげるので、諸葛亮は「返礼として、白ヤクの毛は少し少なくなりました。
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