孫権
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孫策は賓客たちとの宴会の時、孫権を顧み「この諸君があなたの将である」と言ったという逸話がある[5]。建安4年(199年)、孫策の廬江太守[[劉勲]]の征伐に従って劉勲を破ると、進んで沙曹ノ黄祖を討った(孫策の江東平定)。その時、行奉義校尉に任ぜられる[注釈 5]

建安5年(200年)初、漢王朝に対し臣従した孫策と曹操が同盟を結んだことがあったため、孫権と弟の孫翊が司空である曹操に招聘されたことがある。先遣として徐州広陵郡を攻め、陳登を苦しめた[注釈 6]。孫策が襲われて瀕死だったので、軍の帰還中に広陵太守の陳登に敗れた[6]
守成・拡張

建安5年(200年)春、19歳で孫策の遺命を受けて家督を継いだ。朝廷から討虜将軍・会稽太守の官位を得ていた[注釈 7]張昭に師傅の礼を執り、父や兄から引き継いだ家臣の周瑜・朱治・程普・呂範らをまとめあげると積極的な人材登用を行い、周瑜から皇帝としての資質を認められ、魯粛を薦められた[注釈 8]。その後も陸遜諸葛瑾歩?顧雍是儀厳o呂岱徐盛朱桓駱統らを登用した。

家督を継いだ当初は、会稽呉郡丹陽豫章廬江廬陵の江東六郡を領有するが、五郡(廬江・会稽・廬陵・丹陽・豫章)が反旗を翻すと、多くの人々が江東から逃げ出して中原に逃げた[7]。従兄の孫輔は、曹操との内通があったことが発覚したため幽閉され、弟の孫翊や孫堅の代からの臣である孫河が部下に殺害され、従兄の孫ロが反乱を企てたことなど、種々の困難に見舞われた。また、廬江太守の李術は曹操を頼って反乱を起こした。揚州刺史厳象を殺し、江東からの逃亡者を多く受け入れた。廬江郡の梅乾・雷緒・陳蘭らも李術に同調し、手勢数万人を集めて長江・淮水流域の郡県を破壊した[8]。孫権が逃亡者返還を求めると、李術はこれを拒絶した。それに怒った孫権は、先に李術の非を曹操に説いた上で、自ら徐?・孫河を率いて皖城を包囲した。李術は皖城に篭って曹操に助けを求めたものの、曹操の援軍は来ず、食糧が底を突き落城した。孫権は、李術を討ち取り、皖城の兵・民衆3万人を得た。さらに、程普を率いて三郡で服さぬ者と連戦しこれを平定した[9]。山越が孫権に対して反乱を起こしたため、軍隊を諸将に分けて山越を鎮撫し、命令に従わぬ者を討伐させた。孫権は、裏切り者たちを一掃し江東各地を平定した。巧みな内政手腕を発揮して領土を安定させ、江東を治めた。

建安8年(203年)、孫権は自ら指揮を執って江夏を討伐し、父の仇である黄祖の軍を打ち破ったが、黄祖は城に逃げ込んでこれを固守した。しかしこの時、山越が背後で反乱が起こったため孫権は撤退した。孫権は豫章に戻り、呂範に命じてに?陽を平定させ、程普に楽安を討たせた。建安漢興南平の不服従民が再び背き、賀斉に命じて鎮圧させた。反乱の頭目は悉く捕虜となり、討ち取った首は6千にもなったという。のち黄祖の元部下甘寧が降伏してきたためこれを受け入れた。腹心の顧徽を曹操へ使者として派遣し、朝廷の内情を調査した。その後、広陵郡に侵攻し、これを占領した。

建安11年(206年)、孫権は周瑜・孫瑜凌統を率いて、山越の麻屯・保屯を討伐し、1万余の捕虜を得た。

建安13年(208年)、孫権が再び江夏に自ら軍の指揮を執り討伐し、黄祖を討ち取り江夏郡の南部を落とした。

同年の末、曹操が大軍を率いて南下すると、孫氏軍閥は抗戦か降伏かの決断を迫られた。「近ごろ罪状を数えたてて罪人を討伐せんとし、軍旗が南に向かったところ、劉jはなんら抵抗もせず降伏した。今度は水軍80万の軍勢を整えて、将軍(あなた)とお会いして呉の地で狩猟[注釈 9]をいたそうと思う。」孫権はこの手紙を受け取ると群臣たちに示したが、震え上がり顔色を変えぬ者はなかった[5]。孫権は魯粛の進言を聞き入れ、荊州の動向を探るため、劉表の弔問使者として魯粛を派遣した。劉jが曹操に降伏し、劉備は長坂の戦いに敗れ夏口に駐屯していた劉gと合流した[10]。後に曹操の追撃により劉備は劉gと共に孫権領の江南に逃げ込んだが[11]、魯粛と面会し劉備に同盟を説いた。劉備は諸葛亮を派遣して魯粛と共に孫権に面会させた。当時、孫権の臣下は降伏派(張昭・秦松など)が多勢を占める中、孫権は抗戦派であり、降伏派に失望していたことを打ち明け、後に周瑜が群臣に両軍情勢を分析したため、周瑜・魯粛等と共に開戦を決断した[12]。孫権は剣を抜くと前に置かれた上奏文を載せるための案(机)を斬りつけて、「お前達の中にこれ以上降伏すべしと申す者がおれば、この案と同じ運命になると思え」と言った[5]


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