孫文
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他に中山 樵(なかやま きこり)、中山 二郎(なかやま にろう)、高野 長雄(たかの ながお)、ドクター・アロハがある[1]。中国や台湾では孫中山として、欧米では孫逸仙の広東語ローマ字表記であるSun Yat-senとして知られる。
号の由来

孫文は日本亡命時代には東京府日比谷公園付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名乗っていた。なお、その邸宅の主は貴族院議員の中山孝麿侯爵で、孝麿の叔母中山慶子(中山一位局)は明治天皇生母である[2]。また、宮崎滔天から孫文亡命の協力を頼まれた犬養毅平山周が、身を隠すための孫文の日本名として中山忠能(明治天皇の祖父)から拝借したとする説もある[3]

章士サが1903年に宮崎滔天の『三十三年の夢』を『大革命家孫逸仙』に翻訳した際、孫の姓と偽名「中山樵」を併用しており、「孫中山」と呼び、後に中国での孫の通称になった。孫は自分を「孫中山」とは呼ばず、すべての公文書や手紙に「孫文」の名で署名している。[4]

生まれ故郷である広東省の中山市(孫文にちなんで香山県から改称)[1]、中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山大学南極大陸中山基地、そして現在台湾中国にある「中山公園」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の号・孫中山からの命名である。
生涯
生い立ち孫文(17歳)

清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の農民の家に生まれる。父は孫達成(号:孫道川)、母は楊氏であり、5番目の子として生まれた。兄2人姉2人がいたが兄と姉1人ずつは幼くして亡くなり、孫文が生まれた時は父親は53歳、母親は38歳であった。9歳にして父を失う。12歳のとき、地域信仰の象徴であった洪聖大王木像を地元の子供らと壊したことから、兄の監督下に置かれることになる。当時のハワイ王国出稼ぎで渡っていた兄の孫眉からの支援を得て、1878年に母と共にオアフ島ホノルルに移住した。後に同地のイオラニ・スクールを卒業し、同市のプナホウ・スクールにも学び西洋思想に目覚めるが、兄や母は孫文が西洋思想(特にキリスト教)に傾倒することを心配し、1883年に中国に戻された。

帰国後、イギリス植民地香港にある香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、ポルトガルの植民地のマカオ医師として開業した。
革命家へ
日本へ亡命

清仏戦争のころから政治問題に関心を抱き、1894年11月にハワイで興中会を組織した。翌年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。1897年宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。

1899年義和団の乱が発生[5]。翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった[6]。1902年、中国に妻がいたにもかかわらず、日本人大月薫結婚した[7]。また、浅田春という女性を愛人にし、つねに同伴させていた。
アメリカとヨーロッパへ

のちアメリカを経てイギリスに渡り、一時清国公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表し、世界的に革命家として有名になる。この直後の1904年、清朝打倒活動の必要上「1870年11月、ハワイマウイ島生まれ」扱いでアメリカ国籍を取得した[8]。以後、革命資金を集めるため、世界中を巡った。

1905年ヨーロッパから帰国をする際にスエズ運河を通った際に、現地の多くのエジプト人が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。

長い間、満州民族の植民地にされていた漢民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もやめたい」と言っていた。同年、宮崎滔天らの援助で東京府池袋にて興中会、光復会華興会を糾合して中国同盟会を結成。ここで東京に留学中の?介石と出会う。[要出典]
中華民国建国武昌蜂起の兵士たち

1911年10月10日共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。当時、孫文はアメリカにいた。独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって孫文の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府南京に成立した。
国民党と第二革命・第三革命

1913年3月、国会議員選挙において中国同盟会を発展させ、孫文が理事長である「国民党」が870議席の内401議席を獲得[9]。同党の実質的な指導者である宋教仁を総理とした[9]宣統帝退位と引き換えに清朝の実力者となった袁世凱はアメリカの政治学者グッドナウ(英語版)による強権政治(中央集権的な統治)の意見を取り入れ、自身の権力拡大を計り、宋教仁を暗殺し、国民党の弾圧をはじめた[9]。これに伴い、同年7月、袁世凱打倒の第二革命がはじまる[9]1914年に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行した[9]

1915年に袁世凱は共和制を廃止、帝政を復活させ、自らが中華帝国の皇帝に即位しようとした[9]。直ちに反袁・反帝政の第三革命が展開される。翌年、袁世凱は病死するが、段祺瑞が後継者になる。
広東軍政府と護法運動詳細は「護法運動」を参照

このころ、各地では地方軍人による独自政権が樹立され、「軍閥割拠」の状況であった[9]。孫文は、西南の軍閥の力を利用し、1917年広州広東軍政府を樹立する[9]。しかし、軍政府における権力掌握のために、旧広西派陸栄廷を攻撃したことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わった。また、第二次護法運動では中華民国正式政府を成立させたが、連省自治を主張する陳炯明との路線対立により六・一六事変(中国語版)が勃発して失敗、?介石や陳策(中国語版)らと共に広州を脱出した。


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