孫文
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

1922年のコミンテルン極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月26日には孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、ソ連との連帯を鮮明にした[15]。この宣言は、コミンテルン中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、2月21日、孫文は広州で広東大元帥府の大元帥に就任した。

しかし、連ソ容共・工農扶助への方針転換に対して、反共的な?介石や財閥との結びつきの強い人物からの反発も強く、孫文の死後に大きな揺り戻しが起きることとなる。なお、孫文の妻でその遺志を継いだ宋慶齢は大陸に止まり、中国国民党革命委員会を結成して?介石を「裏切り者」と攻撃している。
国共合作

1923年6月の中国共産党第三回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン指導で、国共合作が方針となった[15]

コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンは、ソ連共産党の路線に沿うように中国国民党の再編成と強化を援助するため1923年に中国に入り、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問となった。ボロディンの進言により1924年1月20日、中国共産党との第一次国共合作が成立。軍閥に対抗するための素地が形成された。黄埔軍官学校も設立され、赤軍にあたる国民革命軍の組織を開始する。1925年にはソビエト連邦により中国人革命家を育成する機関を求める孫文のためにモスクワ中山大学が設立された。

1924年10月、孫文は北上宣言を行い、全国の統一を図る国民会議の招集を訴えた。同11月には日本の神戸で有名な「大アジア主義講演」を行う。日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、欧米帝国主義にたいし東洋王道平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。
死去孫文の晩年の写真(1924年)

このころより孫文はガンに侵されており、1925年、

 余、力を国民革命に致すこと爰に凡そ四十年、其の目的は中国の自由平等を求むるに在り。而して四十年の経験に依り、此の目的を達成せんと欲せば必ず克く民衆を喚起し、且つ世界に於て平等を以て我民族を待つものを聯合し、之と協同奮闘するの要あるを知れり。

 現在、革命尚ほ未だ成功するに至らず。凡そ我同志は須く余の著す所の建国方略、建国大綱、三民主義及第一次全国代表大会の宣言に依り継続努力し、以て之が貫徹を期すべし。最近の主義たる国民会議の開催及不平等条約の廃除は、殊に最短期間に於て之を実現するを要す。之れ至嘱するところなり。孫文。[16]

との遺言を記して(実際には汪兆銘が起草した文案を孫文が了承したもの)療養先の北京で客死し、南京に葬られた。その巨大な墓は中山陵と呼ばれる。

霊枢を北京より南京城外の中山陵に移すにあたり、31日国民政府中央党部で告別式を行い、国賓の礼を以て渡支した犬養毅が祭文を朗読[17]。霊柩は犬養毅、頭山満の両名が先発して迎え、イタリア主席公使と?介石と共に廟後の墓の柩側に立った。
死後

精神的、政治的に主柱であった孫文没後の国民党は混迷し、孫文の片腕だった廖仲トは暗殺され[18]、孫文の妻の宋慶齢は国民党を去り、?介石と汪兆銘は対立、最高顧問ボロディンは解雇されるなどした。以降、?介石が権力基盤を拡大する。

孫文の死後に上海で発生した五・三〇事件を背景にして、汪兆銘は広州国民政府を樹立。1926年7月には、約10万の国民革命軍が組織される[18]。総司令官には?介石が就任し、孫文の遺言でもあった北伐を開始した。

1927年、?介石の上海クーデターにより国共合作は崩壊。国民党は北伐を継続し、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒すことに成功した。「?介石政権」も参照
思想
明治維新と孫文の革命観

保阪正康によれば、宮崎滔天山田良政山田純三郎らが孫文の革命運動を援助した理由のひとつは、明治維新または自由民権運動の理想が日本で実現できなかったことの代償であったという[19]。しかし孫文自身も1919年に次のように発言している。

そもそも中国国民党は50年前の日本の志士なのである。日本は東方の一弱国であったが、幸いにして維新の志士が生まれたことにより、はじめて発奮して東方の雄となり、弱国から強国に変じることができた。わが党の志士も、また日本の志士の後塵を拝し中国を改造せんとした[20]

また1923年には、次のように発言している。

日本の維新は中国革命の原因であり、中国革命は日本の維新の結果であり、両者はもともと一つのつながって東亜の復興を達成する[21]

このように明治維新への共感にもとづき日中の連携を模索した孫文にとって、日本による対華二十一ヶ条要求は「維新の志士の抱負を忘れ」、中国への侵略政策を進展させることであった[22]
革命三段階論

孫文は決して民主制を絶対視していたわけではなく、中国民衆の民度は当時まだ低いと評価していたため民主制は時期尚早であるとし、軍政、訓政、憲政の三段階論を唱えていた。また、その革命方略は辺境を重視する根拠地革命であり、宋教仁らの唱える長江流域革命論と対立した。また孫文はアメリカ式大統領制による連邦制国家を目指していたが、宋教仁は議院内閣制による統一政府を目指した。 このように、孫文は終始革命運動全体のリーダーとなっていたのではなく、新国家の方針をめぐって宋教仁らと争っていた。
民族主義

三民主義の一つに民族主義を掲げ、以来万里の長城の内側を国土とした漢民族の国を再建すると訴えていたが、満州族の清朝が倒れると、清朝の版図である満州やウイグルまで領土にしたくなり、民族主義の民族とは、漢とその周辺の五族の共和をいうと言い出した[23]。「五族共和」を参照

しかし、この五族共和論は、すべての民族を中華民族に同化させ、融合させるという思想に変貌する[24]。1921年の講演「三民主義の具体的実施方法」では「満、蒙、回、蔵を我が漢族に同化させて一大民族主義国家となさねばならぬ」と訴え、1928年には熱河、チャハルのモンゴル族居住地域、青海、西康のチベット族居住地域をすべて省制へと移行させ、内地化を行う[25]

儒教漢文科挙とは無縁の、チベット仏教イスラムの地が中国の不可分の国土であるなら、制度文物をことごとく華制に従ってきた朝鮮は、なおいっそう中国の不可分の国土であるのは当然であり、孫文はその主著『三民主義』で、朝鮮を「失われた中国の地」と書いている[26][27]
日本との関係

孫文は生前、日本人とも幅広い交遊関係を持っていた[28]犬養毅の仲介を経て知り合った宮崎滔天[29]頭山満内田良平らとは思想上も交遊し、資金援助を受けてもいた[30]。また、実業家では、松方幸次郎安川敬一郎や株式相場師の 鈴木久五郎梅屋庄吉[11][12]からも資金援助を受けていた。また、滞日時の支援者の一人に、漫画家・柴田亜美の曽祖父もいた。

ほかにも日本陸軍の佐々木到一が軍事顧問にもなっている。ほか、南方熊楠とも友人で、ロンドン亡命中に知り合って以降親交を深めた[31]

また孫の自伝『建国方略』の文書中では、犬養毅・平山周大石正巳尾崎行雄副島種臣・頭山満・平岡浩太郎秋山定輔中野徳次郎・鈴木久三郎・安川敬一郎・犬塚信太郎久原房之助山田良政・宮崎寅蔵(滔天)・菊池良一萱野長知副島義一寺尾亨の名前を列挙し、深く感謝の意を表している[32]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:92 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef