孫文
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宣統帝退位と引き換えに清朝の実力者となった袁世凱はアメリカの政治学者グッドナウ(英語版)による強権政治(中央集権的な統治)の意見を取り入れ、自身の権力拡大を計り、宋教仁を暗殺し、国民党の弾圧をはじめた[9]。これに伴い、同年7月、袁世凱打倒の第二革命がはじまる[9]1914年に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行した[9]

1915年に袁世凱は共和制を廃止、帝政を復活させ、自らが中華帝国の皇帝に即位しようとした[9]。直ちに反袁・反帝政の第三革命が展開される。翌年、袁世凱は病死するが、段祺瑞が後継者になる。
広東軍政府と護法運動詳細は「護法運動」を参照

このころ、各地では地方軍人による独自政権が樹立され、「軍閥割拠」の状況であった[9]。孫文は、西南の軍閥の力を利用し、1917年広州広東軍政府を樹立する[9]。しかし、軍政府における権力掌握のために、旧広西派陸栄廷を攻撃したことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わった。また、第二次護法運動では中華民国正式政府を成立させたが、連省自治を主張する陳炯明との路線対立により六・一六事変(中国語版)が勃発して失敗、?介石や陳策(中国語版)らと共に広州を脱出した。なお、この時に孫文が脱出に使用した「砲艦永豊」は、後に彼を記念して「中山」と改名された。
再び日本へ

孫文は一時的に再び日本へ亡命した。日本亡命時には「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言葉を犬養毅へ送っている[10]

このころに同じ客家でもある宋嘉?の次女の宋慶齢と結婚した。結婚年については諸説あるが、孫文が日本亡命中の1913年 - 1916年の間とされ、この結婚を整えたのは資金面で支援をしていた日本人の梅屋庄吉であった[11][12]

当時、日本の政財界の重鎮であった久原房之助は別邸の日本閣(現在の白金八芳園にある料亭「壺中庵」)に孫文を招いた。完成したばかりの「蘭の間」を提供、異国で過ごす友人を励まし、労った。

この蘭の間には「孫文の抜け穴」と呼ばれる抜け道が用意してあり、不測の事態に備えた仕掛けであった。壁には暖炉の裏に通じる隠し戸があり、それを抜けると地下トンネルを通って逃げられるようになっていた。
五・四運動の影響

1915年、第一次世界大戦中の日本が対華21ヶ条要求を北京政府に要求。1917年にはロシア革命が起きる。第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「抗日愛国運動」が盛り上がった。五・四運動である。

この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく[13]陳独秀毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この抗日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した[14]。旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェビキをモデルとした[14]。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある[14]
佐々木到一軍事顧問就任孫文(右)と?介石

1922年に日本の広東駐在武官となった佐々木到一は、当時、中国国民党の本拠であった広東で国民党について研究し、その要人たちと交わり、深い関係を持った。佐々木は後年に国民党通と言われる。孫文が陳炯明を追い払うと要請を受け、孫文の軍事顧問となる。

佐々木は孫文の軍用列車に便乗して国民党の戦いぶりを観察している。また列車の中で孫文から?介石を紹介された。なお人民服(中山服)のデザインも佐々木の考案に基づいたされる。佐々木は1924年に帰国するが、その後も孫文とは交遊を続けた。
孫文・ヨッフェ共同宣言

1922年のコミンテルン極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月26日には孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、ソ連との連帯を鮮明にした[15]。この宣言は、コミンテルン中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、2月21日、孫文は広州で広東大元帥府の大元帥に就任した。

しかし、連ソ容共・工農扶助への方針転換に対して、反共的な?介石や財閥との結びつきの強い人物からの反発も強く、孫文の死後に大きな揺り戻しが起きることとなる。なお、孫文の妻でその遺志を継いだ宋慶齢は大陸に止まり、中国国民党革命委員会を結成して?介石を「裏切り者」と攻撃している。
国共合作

1923年6月の中国共産党第三回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン指導で、国共合作が方針となった[15]

コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンは、ソ連共産党の路線に沿うように中国国民党の再編成と強化を援助するため1923年に中国に入り、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問となった。ボロディンの進言により1924年1月20日、中国共産党との第一次国共合作が成立。軍閥に対抗するための素地が形成された。黄埔軍官学校も設立され、赤軍にあたる国民革命軍の組織を開始する。1925年にはソビエト連邦により中国人革命家を育成する機関を求める孫文のためにモスクワ中山大学が設立された。

1924年10月、孫文は北上宣言を行い、全国の統一を図る国民会議の招集を訴えた。同11月には日本の神戸で有名な「大アジア主義講演」を行う。日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、欧米帝国主義にたいし東洋王道平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。
死去孫文の晩年の写真(1924年)

このころより孫文はガンに侵されており、1925年、

 余、力を国民革命に致すこと爰に凡そ四十年、其の目的は中国の自由平等を求むるに在り。而して四十年の経験に依り、此の目的を達成せんと欲せば必ず克く民衆を喚起し、且つ世界に於て平等を以て我民族を待つものを聯合し、之と協同奮闘するの要あるを知れり。

 現在、革命尚ほ未だ成功するに至らず。凡そ我同志は須く余の著す所の建国方略、建国大綱、三民主義及第一次全国代表大会の宣言に依り継続努力し、以て之が貫徹を期すべし。最近の主義たる国民会議の開催及不平等条約の廃除は、殊に最短期間に於て之を実現するを要す。之れ至嘱するところなり。孫文。[16]

との遺言を記して(実際には汪兆銘が起草した文案を孫文が了承したもの)療養先の北京で客死し、南京に葬られた。その巨大な墓は中山陵と呼ばれる。

霊枢を北京より南京城外の中山陵に移すにあたり、31日国民政府中央党部で告別式を行い、国賓の礼を以て渡支した犬養毅が祭文を朗読[17]。霊柩は犬養毅、頭山満の両名が先発して迎え、イタリア主席公使と?介石と共に廟後の墓の柩側に立った。
死後

精神的、政治的に主柱であった孫文没後の国民党は混迷し、孫文の片腕だった廖仲トは暗殺され[18]、孫文の妻の宋慶齢は国民党を去り、?介石と汪兆銘は対立、最高顧問ボロディンは解雇されるなどした。以降、?介石が権力基盤を拡大する。

孫文の死後に上海で発生した五・三〇事件を背景にして、汪兆銘は広州国民政府を樹立。1926年7月には、約10万の国民革命軍が組織される[18]。総司令官には?介石が就任し、孫文の遺言でもあった北伐を開始した。


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