生まれ故郷である広東省の中山市(孫文にちなんで香山県から改称)[1]、中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山大学、南極大陸の中山基地、そして現在台湾や中国にある「中山公園」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の号・孫中山からの命名である。
生涯
生い立ち孫文(17歳)
清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の農民の家に生まれる。父は孫達成(号:孫道川)、母は楊氏であり、5番目の子として生まれた。兄2人姉2人がいたが兄と姉1人ずつは幼くして亡くなり、孫文が生まれた時は父親は53歳、母親は38歳であった。9歳にして父を失う。12歳のとき、地域信仰の象徴であった洪聖大王木像を地元の子供らと壊したことから、兄の監督下に置かれることになる。当時のハワイ王国に出稼ぎで渡っていた兄の孫眉からの支援を得て、1878年に母と共にオアフ島ホノルルに移住した。後に同地のイオラニ・スクールを卒業し、同市のプナホウ・スクールにも学び西洋思想に目覚めるが、兄や母は孫文が西洋思想(特にキリスト教)に傾倒することを心配し、1883年に中国に戻された。
帰国後、イギリスの植民地の香港にある香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、ポルトガルの植民地のマカオで医師として開業した。 清仏戦争のころから政治問題に関心を抱き、1894年11月にハワイで興中会を組織した。翌年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。1897年、宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社の頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。 1899年、義和団の乱が発生[5]。翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった[6]。1902年、中国に妻がいたにもかかわらず、日本人の大月薫と結婚した[7]。また、浅田春という女性を愛人にし、つねに同伴させていた。 のちアメリカを経てイギリスに渡り、一時清国公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表し、世界的に革命家として有名になる。この直後の1904年、清朝打倒活動の必要上「1870年11月、ハワイのマウイ島生まれ」扱いでアメリカ国籍を取得した[8]。以後、革命資金を集めるため、世界中を巡った。 1905年にヨーロッパから帰国をする際にスエズ運河を通った際に、現地の多くのエジプト人が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。 長い間、満州民族の植民地にされていた漢民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もやめたい」と言っていた。同年、宮崎滔天らの援助で東京府池袋にて興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成。ここで東京に留学中の?介石と出会う。[要出典] 1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。当時、孫文はアメリカにいた。独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって孫文の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府が南京に成立した。 1913年3月、国会議員選挙において中国同盟会を発展させ、孫文が理事長である「国民党」が870議席の内401議席を獲得[9]。同党の実質的な指導者である宋教仁を総理とした[9]。宣統帝の退位と引き換えに清朝の実力者となった袁世凱はアメリカの政治学者グッドナウ 1915年に袁世凱は共和制を廃止、帝政を復活させ、自らが中華帝国の皇帝に即位しようとした[9]。直ちに反袁・反帝政の第三革命が展開される。翌年、袁世凱は病死するが、段祺瑞が後継者になる。 このころ、各地では地方軍人による独自政権が樹立され、「軍閥割拠」の状況であった[9]。孫文は、西南の軍閥の力を利用し、1917年、広州で広東軍政府を樹立する[9]。しかし、軍政府における権力掌握のために、旧広西派の陸栄廷を攻撃したことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わった。また、第二次護法運動では中華民国正式政府を成立させたが、連省自治を主張する陳炯明との路線対立により六・一六事変 孫文は一時的に再び日本へ亡命した。日本亡命時には「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言葉を犬養毅へ送っている[10]。 このころに同じ客家でもある宋嘉?の次女の宋慶齢と結婚した。結婚年については諸説あるが、孫文が日本亡命中の1913年 - 1916年の間とされ、この結婚を整えたのは資金面で支援をしていた日本人の梅屋庄吉であった[11][12]。 当時、日本の政財界の重鎮であった久原房之助は別邸の日本閣(現在の白金八芳園にある料亭「壺中庵」)に孫文を招いた。完成したばかりの「蘭の間」を提供、異国で過ごす友人を励まし、労った。 この蘭の間には「孫文の抜け穴」と呼ばれる抜け道が用意してあり、不測の事態に備えた仕掛けであった。壁には暖炉の裏に通じる隠し戸があり、それを抜けると地下トンネルを通って逃げられるようになっていた。 1915年、第一次世界大戦中の日本が対華21ヶ条要求を北京政府に要求。
革命家へ
日本へ亡命
アメリカとヨーロッパへ
中華民国建国武昌蜂起の兵士たち
国民党と第二革命・第三革命
広東軍政府と護法運動詳細は「護法運動」を参照
再び日本へ
五・四運動の影響