孫文は生前、日本人とも幅広い交遊関係を持っていた[28]。犬養毅の仲介を経て知り合った宮崎滔天[29] や頭山満・内田良平らとは思想上も交遊し、資金援助を受けてもいた[30]。また、実業家では、松方幸次郎、安川敬一郎や株式相場師の 鈴木久五郎、梅屋庄吉[11][12]からも資金援助を受けていた。また、滞日時の支援者の一人に、漫画家・柴田亜美の曽祖父もいた。
ほかにも日本陸軍の佐々木到一が軍事顧問にもなっている。ほか、南方熊楠とも友人で、ロンドン亡命中に知り合って以降親交を深めた[31]。
また孫の自伝『建国方略』の文書中では、犬養毅・平山周・大石正巳・尾崎行雄・副島種臣・頭山満・平岡浩太郎・秋山定輔・中野徳次郎・鈴木久三郎・安川敬一郎・犬塚信太郎・久原房之助・山田良政・宮崎寅蔵(滔天)・菊池良一・萱野長知・副島義一・寺尾亨の名前を列挙し、深く感謝の意を表している[32]。
評価孫文の肖像画の旧台湾ドル紙幣
孫文の評価は一定していないのが実情である。1970年代以前は被抑圧民族の立場から帝国主義に抵抗した中国革命のシンボルとして高く評価された。特に1924年(大正13年)の「大アジア主義講演」が日本の対アジア政策に警鐘を鳴らすものとして絶賛的に扱われていた。しかし、革命への熱気が冷めた1980年代以降は、孫文の独裁主義的な志向性、人民の政治能力を劣等視するような愚民観、漢族中心的(孫文自身、漢民族の一つ・客家人である)な民族主義といった点が問題視されるようになり、現在の中華人民共和国や民主化以前の台湾(中華民国)の権威主義的・非民主的な体制の起源として批判的に言及されることも多くなった[誰によって?]。
孫文の評価を難しくしているのは、民族主義者でありながらまだ所有すらしていない国家財産を抵当にして外国からの借款に頼ろうとしたり国籍を変えたり、革命家でありながらしばしば軍閥政治家と手を結んだり、最後にはソ連のコミンテルンの支援を得るなど、目先の目標のために短絡的で主義主張に反する手法にでることが多いためである。
彼の思想である「三民主義」も、マルクス・レーニン主義、自由民主主義、儒教に由来する多様な理念が同時に動員されており、思想と言えるような体系性や一貫性をもつものとは見なしづらい。もっとも、こうした場当たり的とも言える一貫性のなさは、孫文が臨機応変な対応ができる政治活動家であったという理由によって肯定的に評価されてきた。
孫文には中国の革命運動における具体的な実績はそれほどなく、中国国内よりも外国での活動のほうが長い。彼の名声は何らかの具体的な成果によるものと言うより、中国革命のシンボルとしての要素によるものと言える。
孫文の活動した時代を扱った中国史研究書でも、ほとんど言及がないものも少なくないが、これは史料の中に孫文の名前が登場しないという単純な理由による。
人物
春秋時代の孫子および三国時代の呉の孫権の末裔と伝わる[注釈 4]。
生前は、その主張を単なる冗談・大言壮語ととらえ、孫大砲(大砲とはほら吹きに対する揶揄的な表現)と呼ぶ者もいた
親族
盧慕貞(1867-1952) - 前妻。子に孫科、孫?、孫婉。1885年結婚、1915年離婚
宋慶齢(1893-1981) - 後妻。1915年に東京で結婚。
宋美齢 - 妻である宋慶齢の妹、?介石の妻
孫科 - 字は哲生、孫文の先妻の息子
孫治平