孫文
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霊枢を北京より南京城外の中山陵に移すにあたり、31日国民政府中央党部で告別式を行い、国賓の礼を以て渡支した犬養毅が祭文を朗読[17]。霊柩は犬養毅、頭山満の両名が先発して迎え、イタリア主席公使と?介石と共に廟後の墓の柩側に立った。
死後

精神的、政治的に主柱であった孫文没後の国民党は混迷し、孫文の片腕だった廖仲トは暗殺され[18]、孫文の妻の宋慶齢は国民党を去り、?介石と汪兆銘は対立、最高顧問ボロディンは解雇されるなどした。以降、?介石が権力基盤を拡大する。

孫文の死後に上海で発生した五・三〇事件を背景にして、汪兆銘は広州国民政府を樹立。1926年7月には、約10万の国民革命軍が組織される[18]。総司令官には?介石が就任し、孫文の遺言でもあった北伐を開始した。

1927年、?介石の上海クーデターにより国共合作は崩壊。国民党は北伐を継続し、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒すことに成功した。「?介石政権」も参照
思想
明治維新と孫文の革命観

保阪正康によれば、宮崎滔天山田良政山田純三郎らが孫文の革命運動を援助した理由のひとつは、明治維新または自由民権運動の理想が日本で実現できなかったことの代償であったという[19]。しかし孫文自身も1919年に次のように発言している。

そもそも中国国民党は50年前の日本の志士なのである。日本は東方の一弱国であったが、幸いにして維新の志士が生まれたことにより、はじめて発奮して東方の雄となり、弱国から強国に変じることができた。わが党の志士も、また日本の志士の後塵を拝し中国を改造せんとした[20]

また1923年には、次のように発言している。

日本の維新は中国革命の原因であり、中国革命は日本の維新の結果であり、両者はもともと一つのつながって東亜の復興を達成する[21]

このように明治維新への共感にもとづき日中の連携を模索した孫文にとって、日本による対華二十一ヶ条要求は「維新の志士の抱負を忘れ」、中国への侵略政策を進展させることであった[22]
革命三段階論

孫文は決して民主制を絶対視していたわけではなく、中国民衆の民度は当時まだ低いと評価していたため民主制は時期尚早であるとし、軍政、訓政、憲政の三段階論を唱えていた。また、その革命方略は辺境を重視する根拠地革命であり、宋教仁らの唱える長江流域革命論と対立した。また孫文はアメリカ式大統領制による連邦制国家を目指していたが、宋教仁は議院内閣制による統一政府を目指した。 このように、孫文は終始革命運動全体のリーダーとなっていたのではなく、新国家の方針をめぐって宋教仁らと争っていた。
民族主義

三民主義の一つに民族主義を掲げ、以来万里の長城の内側を国土とした漢民族の国を再建すると訴えていたが、満州族の清朝が倒れると、清朝の版図である満州やウイグルまで領土にしたくなり、民族主義の民族とは、漢とその周辺の五族の共和をいうと言い出した[23]。「五族共和」を参照

しかし、この五族共和論は、すべての民族を中華民族に同化させ、融合させるという思想に変貌する[24]。1921年の講演「三民主義の具体的実施方法」では「満、蒙、回、蔵を我が漢族に同化させて一大民族主義国家となさねばならぬ」と訴え、1928年には熱河、チャハルのモンゴル族居住地域、青海、西康のチベット族居住地域をすべて省制へと移行させ、内地化を行う[25]

儒教漢文科挙とは無縁の、チベット仏教イスラムの地が中国の不可分の国土であるなら、制度文物をことごとく華制に従ってきた朝鮮は、なおいっそう中国の不可分の国土であるのは当然であり、孫文はその主著『三民主義』で、朝鮮を「失われた中国の地」と書いている[26][27]
日本との関係

孫文は生前、日本人とも幅広い交遊関係を持っていた[28]犬養毅の仲介を経て知り合った宮崎滔天[29]頭山満内田良平らとは思想上も交遊し、資金援助を受けてもいた[30]。また、実業家では、松方幸次郎安川敬一郎や株式相場師の 鈴木久五郎梅屋庄吉[11][12]からも資金援助を受けていた。また、滞日時の支援者の一人に、漫画家・柴田亜美の曽祖父もいた。

ほかにも日本陸軍の佐々木到一が軍事顧問にもなっている。ほか、南方熊楠とも友人で、ロンドン亡命中に知り合って以降親交を深めた[31]

また孫の自伝『建国方略』の文書中では、犬養毅・平山周大石正巳尾崎行雄副島種臣・頭山満・平岡浩太郎秋山定輔中野徳次郎・鈴木久三郎・安川敬一郎・犬塚信太郎久原房之助山田良政・宮崎寅蔵(滔天)・菊池良一萱野長知副島義一寺尾亨の名前を列挙し、深く感謝の意を表している[32]
評価孫文の肖像画の旧台湾ドル紙幣

孫文の評価は一定していないのが実情である。1970年代以前は被抑圧民族の立場から帝国主義に抵抗した中国革命のシンボルとして高く評価された。特に1924年(大正13年)の「大アジア主義講演」が日本の対アジア政策に警鐘を鳴らすものとして絶賛的に扱われていた。しかし、革命への熱気が冷めた1980年代以降は、孫文の独裁主義的な志向性、人民の政治能力を劣等視するような愚民観、漢族中心的(孫文自身、漢民族の一つ・客家人である)な民族主義といった点が問題視されるようになり、現在の中華人民共和国民主化以前台湾中華民国)の権威主義的・非民主的な体制の起源として批判的に言及されることも多くなった[誰によって?]。

孫文の評価を難しくしているのは、民族主義者でありながらまだ所有すらしていない国家財産を抵当にして外国からの借款に頼ろうとしたり国籍を変えたり、革命家でありながらしばしば軍閥政治家と手を結んだり、最後にはソ連のコミンテルンの支援を得るなど、目先の目標のために短絡的で主義主張に反する手法にでることが多いためである。

彼の思想である「三民主義」も、マルクス・レーニン主義自由民主主義儒教に由来する多様な理念が同時に動員されており、思想と言えるような体系性や一貫性をもつものとは見なしづらい。もっとも、こうした場当たり的とも言える一貫性のなさは、孫文が臨機応変な対応ができる政治活動家であったという理由によって肯定的に評価されてきた。

孫文には中国の革命運動における具体的な実績はそれほどなく、中国国内よりも外国での活動のほうが長い。彼の名声は何らかの具体的な成果によるものと言うより、中国革命のシンボルとしての要素によるものと言える。

孫文の活動した時代を扱った中国史研究書でも、ほとんど言及がないものも少なくないが、これは史料の中に孫文の名前が登場しないという単純な理由による。
人物

春秋時代孫子および三国時代孫権の末裔と伝わる[注釈 4]

生前は、その主張を単なる冗談・大言壮語ととらえ、孫大砲(大砲とはほら吹きに対する揶揄的な表現)と呼ぶ者もいた

親族

盧慕貞(1867-1952) - 前妻。子に孫科、孫?、孫婉。1885年結婚、1915年離婚

宋慶齢(1893-1981) - 後妻。1915年に東京で結婚。

宋美齢 - 妻である宋慶齢の妹、?介石の妻

孫科 - 字は哲生、孫文の先妻の息子

孫治平・孫治強 - 孫文の孫、孫科の長男と次男

孫国雄・孫偉仁 - 孫文の曾孫と玄孫

陳粹芬(1873?1960) - 中国人妾。香港に生まれ、1892年に孫文と出会って革命的同志として活動を共にしたが、1911年帰郷。


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