孫文
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翌年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。1897年宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。

1899年義和団の乱が発生[5]。翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった[6]。1902年、中国に妻がいたにもかかわらず、日本人大月薫結婚した[7]。また、浅田春という女性を愛人にし、つねに同伴させていた。
アメリカとヨーロッパへ

のちアメリカを経てイギリスに渡り、一時清国公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表し、世界的に革命家として有名になる。この直後の1904年、清朝打倒活動の必要上「1870年11月、ハワイマウイ島生まれ」扱いでアメリカ国籍を取得した[8]。以後、革命資金を集めるため、世界中を巡った。

1905年ヨーロッパから帰国をする際にスエズ運河を通った際に、現地の多くのエジプト人が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。

長い間、満州民族の植民地にされていた漢民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もやめたい」と言っていた。同年、宮崎滔天らの援助で東京府池袋にて興中会、光復会華興会を糾合して中国同盟会を結成。ここで東京に留学中の?介石と出会う。[要出典]
中華民国建国武昌蜂起の兵士たち

1911年10月10日共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。当時、孫文はアメリカにいた。独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって孫文の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府南京に成立した。
国民党と第二革命・第三革命

1913年3月、国会議員選挙において中国同盟会を発展させ、孫文が理事長である「国民党」が870議席の内401議席を獲得[9]。同党の実質的な指導者である宋教仁を総理とした[9]宣統帝退位と引き換えに清朝の実力者となった袁世凱はアメリカの政治学者グッドナウ(英語版)による強権政治(中央集権的な統治)の意見を取り入れ、自身の権力拡大を計り、宋教仁を暗殺し、国民党の弾圧をはじめた[9]。これに伴い、同年7月、袁世凱打倒の第二革命がはじまる[9]1914年に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行した[9]

1915年に袁世凱は共和制を廃止、帝政を復活させ、自らが中華帝国の皇帝に即位しようとした[9]。直ちに反袁・反帝政の第三革命が展開される。翌年、袁世凱は病死するが、段祺瑞が後継者になる。
広東軍政府と護法運動詳細は「護法運動」を参照

このころ、各地では地方軍人による独自政権が樹立され、「軍閥割拠」の状況であった[9]。孫文は、西南の軍閥の力を利用し、1917年広州広東軍政府を樹立する[9]。しかし、軍政府における権力掌握のために、旧広西派陸栄廷を攻撃したことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わった。また、第二次護法運動では中華民国正式政府を成立させたが、連省自治を主張する陳炯明との路線対立により六・一六事変(中国語版)が勃発して失敗、?介石や陳策(中国語版)らと共に広州を脱出した。なお、この時に孫文が脱出に使用した「砲艦永豊」は、後に彼を記念して「中山」と改名された。
再び日本へ

孫文は一時的に再び日本へ亡命した。日本亡命時には「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言葉を犬養毅へ送っている[10]

このころに同じ客家でもある宋嘉?の次女の宋慶齢と結婚した。結婚年については諸説あるが、孫文が日本亡命中の1913年 - 1916年の間とされ、この結婚を整えたのは資金面で支援をしていた日本人の梅屋庄吉であった[11][12]

当時、日本の政財界の重鎮であった久原房之助は別邸の日本閣(現在の白金八芳園にある料亭「壺中庵」)に孫文を招いた。完成したばかりの「蘭の間」を提供、異国で過ごす友人を励まし、労った。

この蘭の間には「孫文の抜け穴」と呼ばれる抜け道が用意してあり、不測の事態に備えた仕掛けであった。壁には暖炉の裏に通じる隠し戸があり、それを抜けると地下トンネルを通って逃げられるようになっていた。
五・四運動の影響

1915年、第一次世界大戦中の日本が対華21ヶ条要求を北京政府に要求。1917年にはロシア革命が起きる。第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「抗日愛国運動」が盛り上がった。五・四運動である。

この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく[13]陳独秀毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この抗日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した[14]。旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェビキをモデルとした[14]。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある[14]
佐々木到一軍事顧問就任孫文(右)と?介石

1922年に日本の広東駐在武官となった佐々木到一は、当時、中国国民党の本拠であった広東で国民党について研究し、その要人たちと交わり、深い関係を持った。佐々木は後年に国民党通と言われる。孫文が陳炯明を追い払うと要請を受け、孫文の軍事顧問となる。

佐々木は孫文の軍用列車に便乗して国民党の戦いぶりを観察している。また列車の中で孫文から?介石を紹介された。なお人民服(中山服)のデザインも佐々木の考案に基づいたされる。佐々木は1924年に帰国するが、その後も孫文とは交遊を続けた。
孫文・ヨッフェ共同宣言

1922年のコミンテルン極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月26日には孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、ソ連との連帯を鮮明にした[15]


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