孫子_(書物)
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ロシアのウクライナ侵攻においては、2022年5月戦闘が終結したアゾフスタンリ製鉄所(報道によってはイリイチ製鉄所[21])から、同月19日、ウクライナ語訳の『孫子』が発見されている[22][23]
『戦争論』との比較

こうした世界への伝播によって、『孫子』が広く知られるようになると、カール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』と比較する機運が生まれてきた。それは2度の世界大戦への反省に付随して起こってきたものだった。というのも、『戦争論』はナポレオン戦争の教訓に学んで著された書物であり、決定的会戦の重視や敵兵力の殲滅、敵国の完全打倒を基本概念として戦争を論じていることが特徴である。すなわち軍事力の正面衝突を戦争の本質とするため、戦争遂行をそれに則り行った場合、国家間の凄絶な総力戦とならざるを得ない。それが現実となったのが世界大戦であった。戦争の総力戦化に対し、無用の血が流されすぎたという反省が生まれると共に、『戦争論』への懐疑が生まれた。『孫子』はその比較対象として持ち出されたのである。

『戦争論』を非難し、一方で『孫子』を称揚した人として最も著名なのは、イギリスの軍事史家のリデル・ハートである。その代表作『戦略論』の巻頭には『孫子』からの引用が散りばめられ、またフランス語訳『孫子』によせた序文で、『孫子』を古今東西の軍事学書の中で最も優れていると評価している[24]。リデル・ハートは『孫子』を持ち上げることで、今後の戦争は直接的な戦闘よりも策略・謀略を用いた間接的戦略を重視すべきであると説いたのである[25]。そのためクラウゼヴィッツの『戦争論』の人気は、一時期イギリス・アメリカにおいて凋落したという。

しかし現在では、リデル・ハートのように『孫子』を極端に礼賛し、『戦争論』を評価しないような姿勢を非難する見解もある。リデル・ハートのクラウゼヴィッツ非難のいくつかは、彼の誤解に基づくと考える研究者が現れてきたからである[26][27]。しかし、機甲戦術の提唱者の一人であったジョン・フレデリック・チャールズ・フラーも、『戦争論』は未完成な書物であったが故に論理的な混乱すら作中に存在し、多くの読者を誤解に導いたと非難しており、戦争の真の目的は平和であって勝利ではないということをクラウゼヴィッツは最後まで理解できなかったと指摘している[28]のであり、『戦争論』非難を行った有力な軍事研究者はリデル・ハート一人ではなかったという点も事実である。なお、現在では『孫子』・『戦争論』とも高級指揮官教育において不可欠な教材とされ、日本の防衛大学校、アメリカ国防総合大学校やイギリス王立国防大学校をはじめとする、各国の国防関係の教育機関で研究されている。

近年では、イラク戦争での米軍の"Shock and awe"(衝撃と畏怖)作戦が『孫子』『戦争論』を参考にしたといわれている。ただしコリン・パウエルによって提唱された、圧倒的な兵力を投入の後の即時撤退(「パウエル・ドクトリン」)は実際には実行されなかった。そのため、現実の米軍は泥沼のゲリラ戦に巻き込まれ、国力の消耗と国内外からのアメリカ批判を招くことになった。
現代戦略理論との関わり

現代の戦略理論であるゲーム理論で、以下のことが証明されている。すなわち、二人零和有限確定完全情報ゲームの解は、ミニマックス理論である。

孫子が主張するように勝利を目的に敵対する双方が、情報の収集をできるだけ行う・戦力の集中などの工夫で戦闘結果の必然性を増す・冷徹な判断を行う・中立する組織への対応の工夫、などの戦争の合理性をとことん追求していくと、ミニマックス理論が成り立つような状況に限りなく近づいていく。そしてミニマックス法は、最善を尽くしながら相手の失着を待つ手法であり、孫子の主張することとの類似性を指摘する意見も多い[誰?]。

ウォートンスクールのダイナミック競争戦略』において、ゲーム理論の淵源が『孫子』などにあったとテック・フーとキース・ワイゲルトらは指摘している。孫子の兵法はゲーム理論の本でもしばしば引用されるほど、ゲーム理論との共通性があると言われている[29]
『孫子』と日本
日本への伝来

『孫子』が日本に伝えられ、最初に実戦に用いられたことを史料的に確認できるのは、『続日本紀天平宝字4年(760年)の条である。当時、反藤原仲麻呂勢力に属していたため大宰府に左遷されていた吉備真備のもとへ、『孫子』の兵法を学ぶために下級武官が派遣されたことが記録されている[30]。吉備真備は23歳のとき、遣唐使として唐に入国し、41歳で帰国するまで『礼記』や『漢書』を学んでいたが、この時恐らく『孫子』・『呉子』をはじめとする兵法も学んだと推測されている。数年後に起きた藤原仲麻呂の乱では実戦に活用してもいる。

律令制の時代、『孫子』は学問・教養の書として貴族たちに受け入れられた。大江匡房は兵学も修めていたが、『孫子』もその一つであり、源義家に教え授けている[31]。積極的に実戦において試された例としては、源義家が前九年後三年の役の折、孫子の「鳥の飛び立つところに伏兵がいる」という教えを活用して伏兵を察知し、敵を破った話(古今著聞集)が名高い。ただし古今著聞集が発行されたのは後三年の役の約170年後のことであり、この兵法が『孫子』であるとの記載も存在しない[32]
武士の受容

平安貴族に代わって歴史の主役に躍り出た武士たちも、当初は前述の源義家のような例外を除き『孫子』を活用することは少なかったと考えられている。中世における戦争とは、個人の技量が幅をきかせる一対一の戦闘の集積であったためである[33]。『孫子』のような組織戦の兵法はまだ生かされることはなかった。ただ南北朝時代楠木正成北畠親房は『孫子』を学んだという逸話が残っている。しかし足軽が登場し、組織戦が主体となると、『孫子』は取り入れられるようになっていく。幾人かの戦国武将には容易にその痕跡を見出すことができる[10]。ただし、山本が当時の史料『看羊録』によって指摘するように、戦国武将は孫子などの兵法書を持っていても、読解する能力がなく「物読み坊主」といわれる漢文の解釈ができる僧侶に講義をしてもらって理解していたとされる。中でも、武田信玄が軍争篇の一節より採った「風林火山」を旗指物にしていたことは有名である[33][注釈 1]。ただし全般的に見て鎌倉から室町、戦国期において孫子はそれほど重視されていたわけではなく、中国兵書としては『六韜』や『三略』の方がより重視されていた[34]
兵学の隆盛―近世―

徳川家康江戸時代初頭に伏見版と呼ばれる木活字印刷本を発行させるが、その一環として1606年には閑室元佶によって『孫子』が出版された[35]。これはそれまで写本しかなかった『孫子』の初めての印刷であり、江戸期を通じて覆刻され、孫子の普及に大きな役割を果たした。

徳川幕府が天下を治めるようになる時期と、兵学と呼ばれる学問が隆盛を迎える時期は合致する。天下泰平の世には実戦など稀であるが、かえって戦国時代に蓄積された軍事知識を体系化しようとする動きが出てきた。それが兵学(軍学)である。それに比例して、『孫子』を兵法の知識体系として研究する傾向が復活する。そのため江戸時代には、50を超える『孫子』注釈書が世に出るのである。これには中国からの刺激も影響している。たとえば中国で明代から清代に出た注釈書が日本に伝わり、覆刻されている。劉寅の『武経七書直解』や趙本学の『孫子校解引類』(趙注孫子)が有名である。また、日本人の手になるものも多く出た。この嚆矢となるものは1626年に出版された林羅山の『孫子諺解』であり[36]、以降代表的なものだけでも山鹿素行『孫子諺義』(1673年)、新井白石『孫武兵法択』(1722年)、荻生徂徠『孫子国字解』[37]1750年)、佐藤一斎『孫子副註』、吉田松陰『孫子評注』など多数の注釈が著され、このうちでも素行と徂徠のものは特に有用といわれている。


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