孫子_(書物)
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信賞必罰はどちらがより明確に守られているか。

以上のような要素を戦前に比較し、十分な勝算が見込めるときに兵を起こすべきとする。

守屋洋は、孫子の兵法は以下の7つに集約されるとしている。
彼を知り己を知れば百戦して殆うからず。

主導権を握って変幻自在に戦え。

事前に的確な見通しを立て、敵の無備を攻め、その不意を衝く。

敵と対峙するときは正(正攻法)の作戦を採用し、戦いは奇(奇襲)によって勝つ。

守勢のときはじっと鳴りをひそめ、攻勢のときは一気にたたみかける。

勝算があれば戦い、なければ戦わない。

兵力の分散と集中に注意し、たえず敵の状況に対応して変化する。

また、ジョン・ボイド は孫子の思想を以下のように捉えて機略戦を論考している。「機動戦#機略戦」も参照
所望結果(人命と資源の保護の観点)

「武力に訴えず戦わずして勝つこと」を最重視する。

長引く戦争を回避する。


所望結果を獲得するためのコンセプトと戦略
コンセプト


調和

欺瞞

行動の迅速性

分散/集中

奇襲

(精神的)衝撃

戦略


敵の弱点、行動パターン及び意図を暴くため敵の組織と配置を精査する。

敵の計画と行動を操り・敵の世界の見通しを形作る。

攻撃目標の優先順位は、1は敵の政策、2は敵方の同盟の分断、3は敵の軍隊、他に方策がない場合に限り都市、である。

敵の弱点に対して迅速・不意に全力を指向するように正攻法と奇襲の機動を行う。


テキストとしての『孫子』
成立について

孫武は、紀元前500年ごろの人物で、戦国時代の新興国であった闔閭に仕え、その勢力拡大に大いに貢献した。『孫子』の著者が本当に孫武であるのか、また『孫子』という書物の成立時期においては諸説入り乱れ、長期にわたって議論された。

歴史が進み、宋代に国力が全般的に衰退し、北方の少数民族が興隆するにつれていくと、様々な疑念が生まれた。北宋時代に『孫子』の注釈を行った梅堯臣は「果たして中国歴史上の各王朝は本当に史書に書かれているように盛んで、輝かしい大国だったのだろうか。それにとどまらず、そもそも孫子の存在の是非、『孫子兵法』の考え方は戦国的色彩が濃厚であり、作者孫武自体が虚構の存在だったのではないだろうか」と主張している。この説は、とりわけ影響が大きく後の知識人も『孫子兵法』に対して懐疑心を持つようになった。明代の李卓吾は次のように述べている。「孫子兵法は大方、孫武が春秋及びそれ以前の戦い、呉が楚を破った経験、呉王、伍員の軍事研究の考え方を整理したもの。百年余り、口伝え、書き写されて伝わったものを戦国時代になって孫?がまとめ上げ、増補し13編となった。これは『史記』が言うところの「世々伝えられた」兵法の著書である」[2]

しかし、孫子という尊称は、当時、兵法の専門家として諸国の君主の食客となっていた、いわゆる兵家の人々が、彼らの学派の始祖と仰いでいた孫武、孫?を呼んで言ったものであり、『孫子』も、孫武個人、孫?個人の著書というわけではない。戦国時代は、諸子百家と概括されたさまざまな思想の流派が形成されたいわゆる百家争鳴の時代だった。このなかで、孫子の兵法を研究する一派は、兵家の主流として活躍していたものと見られる[3]

現代人が通常手にするテキストは後漢曹操(武帝)が分類しまとめ上げたもの(『魏武注孫子』)であるが、それが『漢書』芸文志・兵権謀家類に載せられている『呉孫子兵法』82巻・図9巻という記述とは体裁が大きく異なるからである。また『孫子』の字を含む書物として、孫武の子孫とされる孫?の著作である『斉孫子兵法』89巻・図4巻も『漢書』に載せられており、その2冊の兵法書と2人の兵法家の関係について、不明な点が多々あったためでもある。最も著名な学説は武内義雄が「孫子十三編の作者」[4]で論じ、貝塚茂樹[5]がそれに賛同したように、孫子の本文に出てくる事物や思想が春秋時代にはあり得ないものが複数指摘されているため、『孫子』13篇の著者を孫?とするもので、『孫?兵法』発見以前は非常に有力であった。

しかし1972年山東省銀雀山の前漢時代の墳墓から『竹簡孫子』や『孫?兵法』が発見され、両書が別の竹簡の写本として存在し、従来伝えられる『孫子』はいわゆる『呉孫子』の原型をほぼとどめたものである。

後の経緯について述べると、孫?の兵法書は時代が下るにつれてさらに多くの兵家の家流が生まれ、それらの流派の中に『孫?兵法』は吸収発展されて、兵家思想の原典ともいえる『孫武兵法』だけが残ることになったとされる[6]。現在では以下のように考えられている。『孫子』は孫武が一旦書き上げた後、後継者たちによって徐々に内容(注釈・解説篇)が付加されていき、そうした『孫子』の肥大化を反映したものが『漢書』芸文志の記載である。しかし、後に曹操の手によって整理され、今日目にする形になったというわけである。
成立時期

『孫子』の成立については、『竹簡孫子』の発見によって多くのことがわかってきたが、成立年代については、春秋末期に成立したとする説と戦国初期とする説がある。それは『孫子』が、孫武の没後も加筆されていったと考えられ、単純に孫武の生きた時代を成立年代とすることができないためである。

『孫子』の内容は春秋・戦国の両時代の特徴を帯びており、成立年代の特定が難しい。たとえば「作戦篇」における戦車戦は春秋時代によく見られるものであるが、「馳車千駟、革車千乗、帯甲十万」といった大編成の戦争形態は戦国時代のものである。


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