学童疎開
[Wikipedia|▼Menu]
熊本男1,2573912,602
女610344
大分男11767341
女9958
小計男2,5818425,586
女1,485678

イギリスにおける学童疎開

イギリスにおける学童疎開は、ドイツがポーランドに侵入した1939年9月1日に行われ、イギリスがドイツに対して宣戦布告した9月3日にはロンドンマンチェスターリバプールなどの都市とその周辺に住む学童の疎開が百万人単位で行われ、行き先は主にスコットランドなど国内の北部だったが、一部はアメリカやイギリス連邦自治領に送られた。

特に1940年7月のバトル・オブ・ブリテンの開始後、緊急児童海外受入委員会(英語版)(CORB)の下で、カナダやオーストラリア、南アフリカなどに学童を集団疎開させる計画が進められた。しかし、同年9月17日に、カナダに向かっていた疎開船「シティ・オブ・ベナレス」がドイツ潜水艦に撃沈されて、乗船児童90人のうち77人が死亡する事件が発生した後、バトル・オブ・ブリテンでイギリスが勝利したこともあり、CORBによる児童の海外疎開は中止された[15]
フィンランドにおける学童疎開

フィンランドでは、第二次世界大戦中の冬戦争ならびに継続戦争の時期において、就学前の子供を中心とした約8万人という大規模な学童疎開が実施され、疎開先としては、その大多数が隣国のスウェーデン(一部デンマークノルウェーへも)だった。

スウェーデン国内では、1939年の冬戦争勃発に伴い、官民の間でフィンランドに対する支援意識が高まり、「フィンランド支援センター」なる機関が立ち上げられ、フィンランドの子供達を無償でスウェーデン人の家庭に受け入れるといった申し出がなされた。当初フィンランド政府は、学童疎開の受け入れよりも、フィンランド国内への物資面での援助の方が優先との意向を伝えたものの、マンネルヘイム陸軍元帥などの賛同によって、学童疎開の実施に踏み切ることとなった。

これにより、スウェーデンに送られた病人や老人なども含めた学童疎開者の数は、1940年春に実施された最初の疎開においては約12,000人だった。その後は継続戦争の勃発によって、本格的に疎開委員会によって疎開が実施され、1941年から1943年には22,398人、1944年から1945年には30,767人にまで膨れ上がった。

疎開先での生活は、家族とはなれて過ごさなければならない為、当初は寂しく辛い思いをしがちだったが、豊かで平和なスウェーデンでの生活に慣れ親しむにつれ、例外もあったが、養父母とともに楽しい日々を過ごしたというケースが多かったという。ただ、新生活に馴染みスウェーデン語を覚えるに伴い、特に年少の子供達の間では次第にフィンランド語を忘れてしまい、母国での暮らしや家族に関する記憶も曖昧になってしまうといった事態が多発した。その為、終戦後にフィンランドへ帰国した後も、生活環境の大きな変化に適応できず、特にフィンランド語を忘れてしまった子供達は、学業の面でも著しい困難に直面することとなった。

そのことから、養父母もしくは子供本人が希望し、実の両親の承認を得て養子になったケースも多く、戦後疎開先の国に留まった子供の数は、帰国後に再度渡った者も含めて、スウェーデンに約15,000人、デンマークに約50人となった。

この児童疎開政策に関し、現在のフィンランドでは、スウェーデンの善意に感謝しつつも、子供達に両親ならびに養父母との2度にも亘る涙の別れを経験させてしまった、両親から見放されたがために疎開に出されたという精神的なトラウマを植えつけてしまった、などといった観点からあまり評価されていないという。
建物疎開京都駅周辺の白黒空中写真(1946年10月)。駅の南側や線路沿いの建物が破壊されている。

日本において当時の人の多くは家屋疎開とも呼んでいた。空襲により火災が発生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、防火地帯防空緑地・防空空地)を設ける為に、計画した防火帯にかかる建築物を撤去することである。跡地は、人々の避難先や復旧時のゴミ・資材置き場として役に立ったが、投下された焼夷弾の数が多量だったため、本来の目的である防火帯としての役割はあまり果たさなかったと言われている。

一部の地域では「爆弾が天井に引っ掛かるので、天井板は無くした方が良い」といった説が流れ、残された住宅の天井板だけを撤去することも行われた。都市空襲の場合、投下された焼夷弾が屋根を貫通した後に天井板で止まり発火する場合が多く、それを防ぐには有効であったと思われるが、工業地帯等に投下された爆弾の重量は平均500kg?1tであり、薄い木製の天井板の有無で影響を受けるとは考えられない。

建物疎開にあたっては、行政機関がその候補を選定し、選ばれた家屋はほぼ強制的に撤去されたため、当時は「強制疎開」とよばれた。疎開対象の選定に当たっては地域の有力者などからの「政治的助言」が大きく影響し、被差別部落に対する偏見や、個人感情から対象に含められたと考えられるものも存在する。

建物疎開は終戦直前まで行われており、本土決戦に備えて人口2万人以上の小都市でも実施され、全国で約61万戸の建物が除却された。また、建物の除却には移転補償の給付がなされたが、敷地に関しては買収形態のものと借地形態のものの両方が存在した[3][16]。建物の取り壊し作業は軍が破壊作業を行った後に付近住民などが撤去作業を行うという手順が一般的であった。瓦礫の撤去に携わったのは主に国民学校高等科(12歳?14歳)の生徒(授業の一環として取り入れられていた)や、女性を中心とした「勤労奉仕隊」、病気などで徴兵対象から除外されていた男性などであった。広島へ原爆が投下された当時も広島市内では既に数千人の学童を含む人々が屋外で建物疎開の作業に従事していた。当日も彼らは既に作業を始めており、炸裂した原爆による被害を受けることとなった。

建物疎開の跡は戦後そのまま道路になった場合が多く、代表的な例では横浜市の根岸疎開道路(馬場町?原町間)など数か所、広島市平和大通り、京都市の御池通左京区川端御池から中京区堀川御池間、大阪市道の上新庄生野線東成区玉津3丁目から生野区林寺2丁目間、都市計画道路難波片江線の生野区鶴橋2丁目付近などがある。特に横浜のそれらと大阪市道豊里矢田線は地元住民から「疎開道路」と呼ばれている。
工場疎開

工場疎開とは、建物疎開とは異なり、重要工場を安全な場所に移転させることである。日本では太平洋戦争末期に、「工場緊急疎開要綱」(1945年2月23日閣議決定)などに基づいて、航空機工場や兵器工場の地下施設化や、工作機械類の移動が行われた。同時に閣議決定された「生産強化企業再整備及工場緊急疎開ノ一体的実施機構ニ関スル件」に基づき、軍需省が所管した。このときに建設された地下施設の中には、戦争遺跡として現存しているものもある。一部は満州に疎開したが、これはソ連対日参戦によりかえって多くの工作機械がソ連軍に鹵獲される結果につながった。
ソビエト連邦における工場疎開.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節の加筆が望まれています。

ソビエト連邦においても、独ソ戦開戦に伴い、ウラル山脈以西のウクライナベラルーシヨーロッパ・ロシアに存在した各種工場の設備や技術者を、ナチス・ドイツによる接収(ひいては兵器生産・供給体制の破綻)から守るためウラル山脈以東の各地へ疎開させている。

一例として、ウクライナのハリコフにあった第183戦車工場(現:V・O・マールィシェウ記念工場)は、独ソ戦開戦に伴いスヴェルドロフスク州ニジニ・タギルへ疎開し、現地のウラル貨車工場(ウラルヴァゴンザヴォート)と合併してT-34戦車の生産を続けた。
美術品、貴重書等の疎開

戦乱の際、貴重な美術品や図書の破壊、散逸を免れるため、本来の収蔵場所から遠ざける例がある。

中華民国台湾)の国立故宮博物院は、元来は北京故宮(紫禁城)で公開されていたものである。日中戦争勃発後に南方に疎開させ、さらに国共内戦の再開及び激化により、その一部が台北に移されたものである。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:46 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef