色は、黒色または濃紺で無地のものが圧倒的に多いが、学校によっては群青色、灰色、緑色、シャドーストライプなどの織が入った生地などが使われる場合もある。また、コスプレ用やイベントの衣装用等として赤や白[注釈 1]、柄物の学生服も少数ではあるが生産されている。
素材は、ウールやポリエステルやその混紡が主で、裏地(ライナー)は総裏のものと背抜きのものがある。また、戦前の夏服[注釈 1] には木綿やスフなどが用いられることもあった。かつては純毛のサージ織が大半であったが、現在ではカシドス(カシミア・ドスキン)と呼ばれる目の細かい織りのものが増えてきており、夏用のズボンには平織りの生地が使われることもある。既成の変形学生服の多くは、ポリエステル100%のカシドスである。
前合わせは五つボタンが一般的であるが、七つボタンのものやホックやファスナーで留めるタイプもある。袖ボタンは2個が基本だが、1個や3個、ボタンなしを標準とする学校もある。また袖口やポケットなどにステッチや蛇腹のパイピングをあしらう例もあり、バリエーションは数多い。ボタンは金色の場合が多いが、学校によっては銀色や黒色が用いられることもあり、校章など独自の意匠が配されるのが通例である。ただし、公立中学校の一部では、汎用の桜花模様のボタンで代用される例もしばしば見られる。
詰襟タイプの男子学生服は学ランとも呼ばれる。学ランの「ラン」は和蘭陀の「ラン」を指し、江戸時代に洋服を蘭服と呼んでいたことに由来するという説がある。つまり呉服(中国由来のスタイルの服=今でいう和服)に対しての蘭服(西洋の服)として、蘭学同様鎖国中は和蘭陀が西洋全てを代表する名前となっていたためである[2]。その後隠語として生き続けた後、昭和50年代に漫画で「ガクラン」と称したことによって再び世間に広まり一般的な呼称となっている[4]。1980年代前半頃、「ガクラン」は長ランなどの変形学生服を指す限定的な用語として使用することもあった[5] が、現在は詰襟の学生服全般を指す。
歴史と文化
歴史東京帝国大学を卒業する1916年(大正5年)頃の第4次『新思潮』のメンバー。和服姿の松岡譲を除き、久米正雄、芥川龍之介、成瀬正一(左から)の3人は学生服に角帽を着用している。明治時代の男女の学生。1899年(明治32年)の本の表紙より
詰襟の学校制服としては、工部省工学寮や札幌農学校で、1873年頃に定められたものが最初期のものに数えられるが[6] 、とくに工学寮(後の工部大学校)の場合、制服は官給品であった[7]。近代化が始まったばかりで、洋服はじめ西洋の生活様式が新奇だった時期における、開化政策の一つの試みといえよう。なお、工学寮の制服の形式だが、当時の生徒写真や卒業生の証言によると、紺色のラシャ仕立てで、両胸部に襞を設け、腰部にベルトを付けた、ノーフォークジャケットに近い立襟の服で、付随する制帽はグレンガリー帽(スコットランド発祥の帽子。ギャリソンキャップの原型)であった[8]。これらの学校の他には、学習院が1879年(明治12年)に服制を定めているが、現在の学校に広く通じる学生服の起源は、東京帝国大学が1886年(明治19年)に定めた制服とされる[6]。同年、文部省通達により高等師範学校でも詰襟型学生服が採用された[6]。その後、師範・中学・高等中学・帝大・大学などでも採用し始められた[6]。生地は羅紗やサージ、色は冬服は当時の軍服に倣った黒[9] または紺色、夏服は白[注釈 1] または霜降りが主流(例外として神戸一中および二中の夏冬通してカーキ色[注釈 2] などがある)で、ボタン留めあるいは海軍士官型の蛇腹ホック式いずれかの形式であった。
しかし当時はまだ着物が主流の時代であり、高価な学生服は明治時代?大正初期頃までは都市部を除いてあまり普及せず、和服に下駄姿で風呂敷を持ち、学生帽を被るというのが一般学生の典型的なスタイルであった。たとえば、石橋湛山は回想記の中で明治末期の学生生活を振り返っているが、裕福な者が多く通っていたと思われる東京帝国大学においてすら、夏用と冬用の制服を揃えていた学生は少なかったと述懐する。帝大の卒業式には天皇が行幸するため、学生は制服を着用した正装でこれを送迎していたが、当時の卒業式は真夏の7月に行われたため、夏服を持たない多くの学生は黒い冬服のまま参加せねばならず、彼らは冗談交じりに(「厚い」冬服と「暑い」気温、「篤い」忠心をかけて)「忠義とはあついものだ」というフレーズを作った。