学生服
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生地は羅紗サージ、色は冬服は当時の軍服に倣った黒[9] または紺色、夏服は白[注釈 1] または霜降りが主流(例外として神戸一中および二中の夏冬通してカーキ色[注釈 2] などがある)で、ボタン留めあるいは海軍士官型の蛇腹ホック式いずれかの形式であった。

しかし当時はまだ着物が主流の時代であり、高価な学生服は明治時代?大正初期頃までは都市部を除いてあまり普及せず、和服に下駄姿で風呂敷を持ち、学生帽を被るというのが一般学生の典型的なスタイルであった。たとえば、石橋湛山は回想記の中で明治末期の学生生活を振り返っているが、裕福な者が多く通っていたと思われる東京帝国大学においてすら、夏用と冬用の制服を揃えていた学生は少なかったと述懐する。帝大の卒業式には天皇が行幸するため、学生は制服を着用した正装でこれを送迎していたが、当時の卒業式は真夏の7月に行われたため、夏服を持たない多くの学生は黒い冬服のまま参加せねばならず、彼らは冗談交じりに(「厚い」冬服と「暑い」気温、「篤い」忠心をかけて)「忠義とはあついものだ」というフレーズを作った。湛山自身も洋服の工面に苦労したらしく、早稲田大学卒業式の際(これも夏に行われた)、冬服しかない彼は知人から借り受けた夏服を着て臨んだが、シャツがなく、素肌の上から直に上着を着ていたため、夜の宴会場にて周囲から暑いので脱げと言われて困ったことを記している[10]東京府立五中の背広型制服

大正中期頃よりモダニズムの波が広がり、また第一次世界大戦の影響により日本への需要が急増して思わぬ好景気となったこともあって、それまで贅沢品扱いであった洋服が普及し始め、それと共に学生服も全国的に普及していくこととなる[11]。中には、当時としては珍しい背広型の制服が定められた学校もある(法政大学[12]成城高等学校[13]東京高等工芸学校[14]昭和医学専門学校[15]東京府立五中第一東京市立中第二東京市立中など)。

昭和10年代(1936年?45年)になると次第に戦時色が濃くなり、1940年(昭和15年)11月には、国民服令(昭和15年11月1日勅令第725号)が公布され「国民服」が誕生した。昭和17年からはこの国民服が全国共通の通学服として用いられることになり、従来の学生服は徐々に姿を消していった[11]

1943年(昭和18年)10月21日明治神宮外苑競技場にて「学徒出陣」壮行会が行われ、学生服に身を包んだ学生2万5千人が送り出され戦地に赴いた。

1945年(昭和20年)の終戦直後は、社会の混乱により服装を気にする余裕もない人達が多かったため、学校へ通う人の服装はまちまちであった(国民服、和服、洋服、旧日本軍軍服、連合軍の軍服など)。戦後日本を占領・間接統治した連合国軍総司令部 (GHQ) は日本の学校教育から軍国主義の払拭を図り、教育勅語の廃止や中等教育における三原則の推進など数々の改革を行ったが、学生や生徒の服装についてまでは介入しなかったために、詰襟学生服は戦後も日本の学校教育の中に生き延びることになる。戦後の復興が進むにつれて学生や生徒の服装も再び学生服へと戻っていった[注釈 1][16]

1950年代ごろまで大学生の一般的な服装は学生服であったが、1960年代に入ると上着は学生服に対して下は黒色以外の好きな色のスラックスを穿くという崩したスタイルが見られ始め[17]、さらに大学生のスタイルの多種多様化により学生服離れが加速し、1960年代末にはかなり少数派となった。現在、大学生で学生服を着用しているのは応援団と一部の体育会系など限られた人のみである(「詰襟#歴史」も参照)。

1963年(昭和38年)舟木一夫が学生服姿で歌う「高校三年生」が大ヒット。その後数曲の衣装は学生服路線であった。

1960年以降、学生服を着用しない大学生がしだいに増加するようになった頃、中学校や高校の中でも今までの一般的な学生服には無い個性や自己主張を盛り込みつつ、既定の路線から踏み外したデザインを求める動きが一部で現れ始めた。この頃はまだ上衣の改造はほとんど見られないが、1960年代には「ラッパズボン」と呼ばれる裾が大きく広がったズボンや、「マンボズボン」、「スカマン」と呼ばれる逆に裾を細く絞り込んだズボンが一部の不良の間で着用されていた[18]

1967年以降に全国で起きた学園紛争の影響で、中学・高校生に服装や頭髪自由化の運動が起こり制服廃止の流れが起こった。ただし60年安保闘争の映像を見ると全学連の学生の多くは学生服姿であり、70年代初頭まではデモの隊列の中に学生服姿が必ず存在していた。大学での学生運動に於いては学生服反対というような風潮はなかったのは、すでに学生服は着用が義務とされる「制服」ではなかったからであろうと推測される。また学生服を着たきりにするというのは、当時は安上がりな方法であり、貧困学生の生活を助けるものであったことも影響している。

確認されている限りでは1960年代後期以降、ただの歌舞伎的な姿勢でもあるが、理屈としては」演舞の際に上衣の裾が乱れる」ことを嫌った一部の大学応援団において、袷が深く長めの学生服と動きやすい腰周りが太めのズボンを誂えて着用するということが始まり、この流行は応援団員の持つ硬派なイメージと共に瞬く間に全国に広がった。いわゆる「長ラン」、「ボンタン」と呼ばれる変形の代表的なスタイルの誕生である[19]。ただし1970年代後半になると大学生が硬派のノリを敬遠するようになったこと、一部大学では暴力追放の一環として学ランの着用を禁じた[20] こともあったが、なによりも大学生生活の軟派化により、古風でダサい学生服を着用する大学生はキャンパスから急速に姿を消した。


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