学校放送
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このためNETでは学校放送を制作し、平日の午前中を中心に放送した。学校の長期休暇中には、NHKと同様に「(夏・冬・春)休みテレビクラブ」という名称の復習シリーズを1959年の夏休みから実施した(1960年代前半まで)。

地方でも各地域の第1局を中心にネットされ、これが民間放送教育協会(民教協)の基礎となっていく。実際、民教協はNET系列のニュースネットANNよりも先に結成されている。詳細は「民間放送教育協会#概要」および「オールニッポン・ニュースネットワーク#ネットワークの形成」を参照

しかし、NETは教育中心編成がネックとなって経営危機に陥ったため、収益改善策として実際は娯楽番組といえる内容のものを、名目上教育番組・教養番組扱いとして届け出る方便を取る形で総合局に近い番組編成を行い、郵政省もそれを黙認する形となった。

1969年(昭和44年)、日本経済新聞社が持株を朝日新聞社旺文社に売却。1973年(昭和48年)11月1日の免許更新で念願の総合局免許を取得すると、1974年(昭和49年)4月改編で『みんなの東京』(小学校4年生社会科。1972~1979)を除く学校放送を打ち切った。現在は民教協制作の教養番組を主にローカルセールス枠(番組そのものは放送枠買取によるスポンサードネット扱い)で放送するだけに留まっている。
科学テレビ→東京12チャンネル

1964年(昭和39年)に開局した関東地区の東京12チャンネルは、免許人となった日本科学技術振興財団が、外郭団体の「科学技術学園」を通じて開局と同時に科学技術学園工業高校を立ち上げ、新部署としてテレビ放送事業本部を設置して、通信制の授業を放送することになり、「科学テレビ」の通称で開局した。

免許の条件もNETの開局時よりさらに厳しいものとなり、科学技術教育番組60%、残りも教養または報道に充てるとし、娯楽番組を編成することは事実上不可能だった。このため、12チャンネルは民放でありながらCMを全く流さず、放送時間も先発他局に比べて圧倒的に短かった。詳細は「テレビ東京#かつての経緯」および「日本科学技術振興財団」を参照「科学技術学園高等学校#沿革」も参照

1967年(昭和42年)、免許条件が緩和され、科学テレビでも娯楽番組(20%)[注 2] の放送ができるようになる。翌1968年(昭和43年)7月1日、科学テレビは制作部門を分離、新たに番組制作を請け負う新会社「東京12チャンネルプロダクション」(現・テレビ東京)が設立される。[3] 日本経済新聞社と日本生命グループ、および毎日放送が出資する。日経は創立当初NETにも出資していたが、NET株を朝日新聞に売りその利益を12チャンネルプロへの投資につぎ込んだ。詳細は「高橋信三#テレビ東京支援と相次ぐ打ち切り事件」を参照

1973年(昭和48年)10月1日、財団からテレビ局の経営を譲られた12チャンネルプロが、「株式会社東京12チャンネル」に社名変更。12チャンネルを教育専門局から一般総合局に転換する政府の方針[注 3] もあり一般総合局としての免許申請を行う。一方の財団テレビ事業本部は、7月に申請していた科学技術教育専門局の申請を取り下げたため、財団テレビ局は10月31日をもって廃局されている。代わって12チャンネルが11月1日付で総合局の免許[注 4] が交付され改めて開局。他の民放と遜色ない体制に移行した。科学技術学園の学校放送も1974年4月改編で終了した。
他系列への影響

関東2キー局が総合局に移行した後も、県域独立放送局テレビ神奈川(TVK)、千葉テレビ放送(CTC)、テレビ埼玉(TVS)の3局が、県教育委員会の制作・提供による学校放送を平日午前中の時間帯に実施するとともに、教員や保護者向けの番組も併せて放送した。いずれの局とも2000年代には番組数・放送時間ともに減少し、TVKでは2008年3月までの障害児向け番組『のびる子きょうしつ』および『のびる子教室』[注 5]、CTCでは2006年3月までの小学生向け社会科番組『まなび発見ちば』を最後に放送を終えた。

また、総合編成が可能だったフジテレビも厳密な意味での学校放送ではないものの、鹿内信隆による硬派志向もあり、初期のスローガンである「母と子のフジテレビ」の通り子供向けの情操教育番組に長年力を入れ、「ピンポンパン」や「ひらけ!ポンキッキ」が長寿番組となり、「ポンキッキ」は日本で過去に制作されたすべての番組の中で最多の受賞経験を持つに至った。詳細は「ひらけ!ポンキッキ#受賞歴」を参照

1980年代半ばからは、少子化の進捗や、鹿内春雄日枝久らによる「楽しくなければテレビじゃない」を標榜した娯楽番組偏重路線による経営改善策により「ピンポンパン」は終了、「ポンキッキ」は「ポンキッキーズ」へ刷新し、地上波での放送枠は段階的に縮小する一方、2000年以降は事業を新たに設立したフジテレビKIDSに、主軸メディアを地上波から衛星波のBSフジに移行させ複数の新番組を供給した。しかし2000年代後半から2010年代にかけ再度番組数や放送枠の縮小に転じ、2018年をもって「ポンキッキーズ」を終了するとともにフジテレビKIDSも解散した。

先発局で同じく総合編成が可能だった日本テレビも、読売テレビ札幌テレビが準教育局であることや、系列局が民放第1局となった地域でNET発の学校放送番組がネットされたことに配慮して「ロンパールーム」などの情操教育番組を投入し、視聴者の支持を獲得した。

TBSテレビは、キー局となったJNN加盟局の多くでNET発の学校放送番組・教養番組がネットされたことを受け、それらの番組がJNN協定の制約を受けないようにする措置を行った。
FM東京と望星高校

ラジオでも1958年(昭和33年)に東海大学が実験局(現・実験試験局)として開局したFM東海では、翌1959年(昭和34年)に東海大学付属高校通信教育部(現・東海大学付属望星高等学校)の教育課程の一環として「高校通信教育講座」という番組が設けられた。詳細は「FM東海#実験局・実用化試験局の開局」を参照

これはFM東海が1970年(昭和45年)に商業民放のFM東京に移行した後も東海大学がスポンサーとなって続けられ、1998年(平成10年)、CS-PCM放送のミュージックバードに切り替えられて地上波での放送を終了した。2011年(平成23年)にはミュージックバードも放送終了となってSPACE DiVAに移行するが、インターネット配信に変更され2013年(平成25年)3月終了した。詳細は「東海大学付属望星高等学校#沿革」を参照
関西

関西地区の民間テレビジョン放送のうち、第2局の新大阪テレビ(開局直前に讀賣テレビ放送に改称)と第4局の毎日放送テレビ(MBS)が準教育専門局として開局した。

読売テレビは、月曜日に幼稚園向けの「私たちの幼稚園」と「仲よし劇場」、火曜日から金曜日に小学校、中学校、高等学校向けの「私たちの学校」、土曜日に校内に集まるPTA向けの「PTAアワー」という1日あたり30分の枠を編成した[4]

MBSは母体に関西教育文化放送が加わった関係で社内に「毎日放送テレビ教育会議」を持っており(?2000年3月)、民教協に参加し(?1992年)、NET制作の学校放送をネットした他、自社制作の学校放送番組として『4年生の社会科』(のちの『わたしたちの近畿』)を制作した。MBSはNETの学校放送を最終年の1974年までネット受けした。
その他

1990年代まで、
エフエム愛知で平日の午前11時から、愛知県教育委員会による15分の学校放送2番組が放送されていた。FM放送の特性上、音楽、英語、社会の各科目を放送していた。なおこのため、「コーヒータイム」などこの時間のネット番組が、エフエム愛知では30分先行放送されていた。

アメリカ統治下沖縄では、テレビは本土復帰後のNHK沖縄放送局による教育テレビ[注 6] の開局まで琉球放送沖縄テレビ放送が、ラジオは復帰翌月にNHK沖縄放送局がラジオ第2を開局するまで[注 7] 琉球放送とラジオ沖縄極東放送日本語局(当時は宗教放送局、現・エフエム沖縄)が、琉球政府文教局提供でNHKの学校放送を放送していた。詳細は「沖縄テレビ放送#沖縄放送協会(OHK)開局まで放送されたNHKの番組」を参照

長野県では、信越放送が、FM波を利用した教育・学校放送専門の第2波児童文化放送を計画し、免許申請も行ったが、却下された。


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