動員率は1945年(昭和20年)3月現在の統計では以下の結果となっていた。
大学・高専・師範学校 - 64.1%
中等学校(中学校・高等女学校・実業学校) - 81.9%
国民学校高等科 - 58.6%
同年8月15日の終戦の詔勅を、勤労先で聞いた動員学徒は340万人であった[1]。 勤労動員の生徒の中には、動員中に戦災や災害で犠牲になる者もいた。 1944年(昭和19年)12月7日午後1時36分の昭和東南海地震では、愛知県半田市の中島飛行機半田製作所の死者153人のうち、96人が動員学徒だった。生存した学徒も、被害について絶対に口外しないようにとする、戦時統制に基づく通達の厳しい緘口令が敷かれた[3][4]。1945年6月9日、名古屋市熱田区の愛知時計電機船方工場・愛知航空機(現愛知機械工業)工場に行われた熱田空襲では、従業員や動員学徒約2万2,000名のうち1,045名が死亡、約3,000名が負傷した。 8月6日の広島原爆投下では、広島陸軍兵器補給廠に出勤した学徒や、広島電鉄の路面電車の運転手・車掌だった学徒、建物疎開に参加していた学徒が多数被爆した。特に、爆心地付近の中国軍管区司令部にいた学徒は即死。建物疎開のために広島市とその近郊の中学校39校から集まった中学1年生の学徒約8,000人は、屋外にいたため原爆の熱線や爆風、放射線が直撃し、当日中に約3,200人が死亡、その後も1ヶ月以内に約6,000人が死亡した。生存した学徒も、自分だけ生還したという後悔の念がトラウマ(サバイバーズ・ギルト)になった者や、顔にケロイドを負う後遺症が残った者もいたほか、第二次性徴だった女性を中心に乳癌の発症率が高いというデータがある[5]。
犠牲
脚注^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「戦時教育体制の進行
^ 学徒の徴収猶予停止、直ちに徴兵検査(昭和18年10月2日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p227
^ “NHK歴史証言アーカイブス[証言記録 市民たちの戦争]封印された大震災?愛知・半田?