学徒出陣
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^ 元海軍軍人で軍事評論家の水野広徳は1933年に「国家が必要と認めて高等の学問を施しておきながら無教育あるいは低教育の一般青年と同様に均等の兵役義務を負わせるのは大なる矛盾」「国民が国家に報じる道は兵役ばかりではなく、兵役などという一種の労働職務は教育の低い青年に課するのが国家として得策」と述べている。高田里恵子「学歴・階級・軍隊」中公新書、2008年
^ 東京の盛り場、抜き打ち二千人検挙『東京日日新聞』(昭和13年2月16日)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p71 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
^ 徴兵猶予取り消しも考えると末次内相『東京日日新聞』(昭和13年7月30日)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p72
^ 大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件(昭和16年勅令第924号)、大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和十六年度臨時短縮ニ関スル件(昭和16年文部省令第79号)。在学徴集延期期間ノ臨時特例ニ関スル件(昭和16年陸軍省令第43号)、在学徴集延期期間ノ短縮ニ関スル件(昭和16年陸軍省、文部省令第2号)。
^ 大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和十七年度臨時短縮ニ関スル件(昭和16年文部省令第81号)
^ 「御署名原本・昭和十八年・勅令第七五五号・在学徴収延期臨時特例(国立公文書館)」 アジア歴史資料センター Ref.A03022864800
^ 「おなじ農学部でも、学科によって学徒出陣、学徒動員に駆り出された者とそうでない者があった。」、「私は獣医学科に入学しました。クラスの者は昭和18年10月21日、明治神宮外苑で行われた学徒出陣式で、公私立大学専門学校の学生たちとともに激励を受けると、それぞれ故郷へ帰って臨時徴兵検査を受けました。その後、合格者には赤紙(召集令状)が来ましたが、獣医学科の学生の場合は、最後に召集を延期する旨の一文がありました。これが召集延期で、農学科や農業経済学科の学生にはありませんでした。」 - 以上、 ⇒別冊「東京帝国大学が敗れた日」 『東大生が体験した「8月15日」』(立花隆、文芸春秋、2005年)の中の「学部で分かれた徴兵猶予の有無」の段落より一部引用。
^ “学徒出陣 :: 法政大学”. www.hosei.ac.jp. 2022年10月12日閲覧。
^ “学徒出陣とは”. 戦争を伝えるミュージアム 太平洋戦争をわかりやすく|戦争|NHKアーカイブス. NHK. 2022年10月12日閲覧。
^ 大学・短期大学等の入学者数及び進学率の推移(2008年2月18日アーカイブ) - 国立国会図書館Web Archiving Project
^ 『大学崩壊と学力低下で専門学校の時代が来た』 170-171頁。
^ 朝日新聞、2010年10月21日付。
^ 毎日新聞、2013年10月21日付。
関連項目
徴兵制度
出陣学徒壮行早慶戦
学徒勤労動員
日本戦没学生記念会(わだつみ会)
上原良司
慶應義塾大学在学時に学徒出陣が決定。享年22歳。最終階級は大日本帝国軍陸軍大尉。
杉本苑子
明治神宮外苑競技場での壮行式に女学生として参加し、観客席から出陣学徒を見送った。後に作家となり、この時の印象を度々語っている ⇒[1]。
外部リンク
学徒出陣 - NHK放送史(1943年10月21日の東京での出陣学徒壮行会の実況音源)
学徒出陣とは - NHK戦争を伝えるミュージアム
学徒出陣 - NHK for School
映画『学徒出陣』 - YouTube
表
話
編
歴
太平洋戦争/大東亜戦争
開戦前
ロンドン海軍軍縮会議
オレンジ計画
排日移民法
満洲事変
第一次上海事変
華北分離工作
防共協定
日中戦争
北支事変
第二次上海事変
ノモンハン事件
日独伊三国同盟
日ソ中立条約
東亜新秩序
日米交渉
仏印進駐
関東軍特種演習
ABCD包囲網
日蘭会商
帝国国策遂行要領
タイ・仏印戦争
ハル・ノート
南方作戦
マレー作戦
真珠湾攻撃
ニイハウ島事件
マレー沖海戦
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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