孟子
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かつて恵王に奪われた土地を回復する方法を孟子に質問した時、孟子は仁者無敵を説いた。それは、国土は小さくても、仁政を施せば、誰にも負けない、ということである。仁政とは、刑罰を簡単にして、を軽くし、丁寧に耕作して、若者には孝悌忠信の道徳教育を行うことである。そのような仁政を受けた民は、戦いでも勇敢で、仁政のない国の民は、主君に協力せず背いたりもする。ゆえに、仁者無敵である、というのである。

論語に載せられている孔子の弟子の有子の言葉とされているものに、
孝弟なる者は、それ仁の本為るか。

がある。孝とは親に対する愛情、弟とは兄に対する尊敬のことである。
仁の実は親に事うること是なり。義の実は兄に従うこと是なり。

という言葉が『孟子「離婁篇」』にある。これは、孔子の説いた仁を拡大した孟子の説く仁義のことを示している。孟子は自分のことを孔子の正統な継承者だと自負していた。

その後、恵王が死んでその子の襄王が即位すると、孟子はこの襄王を
之を望みたるに人君に似ず

と評していたため、失望してに行った。斉では宣王が即位していた。ここでも孟子は国士扱いを望み、好きに論争するだけで給料のもらえる稷下の学士と同等にされたくない、というプライドがあった。
抱関(門番)、撃柝(夜警)の者も、皆、常職有りて上(君主)より食む。常職無くして而も上より賜るは、不恭と為すなり。

と『孟子「萬章伝」』にある。門番から夜警に至るまで、皆定職があって給料をもらっているのに、定職もないのに給料をもらうのは、人生に対して真面目な態度とは言えない、と主張した。故、宣王に呼び出されて参内することを拒否して宣王自ら来てほしいと要請して、自分が王宮に行くのは何か進言したいことができたときだけ、ということにした。孟子は自分のことを「所不召之臣(召さざる所の臣)」と思っていた。
管仲すら且つ召す可からず。而るを況や管仲為らざらん者をや。

と述べている。管仲は桓公を補佐して春秋覇者にした人物である。桓公は管仲のことを決して呼びつけにしなかった。そして、管仲すら、と述べていることで、孟子は自分を管仲や湯王を補佐して湯王にも呼びつけにされなかった伊尹以上の人物であると確信していた。

とある日、宣王が孟子に向い、の臣であった武王が主君である殷の紂王を伐ってを打ち立てたことについて、質問した。すると、孟子は
[2]仁を賊ふ者は之を賊と謂ひ、義を賊ふ者は之を残と謂ひ、残賊の人は之を一夫と謂ふ。一夫の紂を誅せりとは聞けども、未だ君を弑したりとは聞かず。

と答えた。これの意味は、

「仁を失った者は賊であり、義を失った者は残であり、仁義を失った者は君主である資格がなく、残賊、つまり、ただの男である。ただの男の紂を殺したとは言えても、君主である王を殺したとは言えない。」

ということである。要するに、これほど君主の位は軽い、と言いたいのである。

また、宣王の態度を質問した時、孟子は、王室と関係がある貴戚の卿と、王室と関係のない異姓の卿では、王に対する態度も違う、と言った。まず、貴戚の卿は、
君に大過有れば則ち諫め、之を反覆して聴かれざれば、則ち位を易う。

と説いた。つまり、

「君主が道理から外れていることをしていれば諫言をするが、聞き入れられなければ、追放して別の君主に変える。」

ということである。貴戚のは、君主と血がつながっているので、君主が仁義にかなわない場合には、放っておけないので王族の中から仁義にかなうものを選ぶ必要がある。これを聞いて宣王は驚いて顔色を変えたが、孟子は過度のますらおであり、自分の発言に王がどんなに顔色を変えても堂々としていた。自分の思想を全く疑わずに説くのである。次に、異姓の卿は
君に大過有れば則ち諫め、之を反覆して聴かざれば、則ち去る。

と説いた。つまり、

「君主が道理から外れていることをしていれば諫言をするが、聞き入れられなければ、その君主の下を去っていく。」

ということである。異姓のは、君主と血がつながっていないので、君主が仁義にかなわない場合には、放っておいてその君主の下を離れる。戦国時代の君臣関係は極めて自由であり、自分の出身地に仕えないことはもちろん、数国に仕えることもある。この際も、君主の廃立など考えずに気に入った国に仕官する、といったことを基にして発言している。

しかし、孟子がに仕えてから七、八年か経つと、宣王は病気を理由に孟子の家に使者を派遣して

「あなたと話したいことがありますが、運悪く風邪のためそちらに行けません。いかがですか?あなたの方から来てはいただけないでしょうか?」

と伝えて呼び出そうとした。しかし、孟子も病気という口実で拒否した。
不幸にして、疾有り。朝に造る能わず。

たった今、参内しようとしていたのに、仮病を使って拒否した。「召さざる所の臣」である孟子はこのような事情でも行くわけには行かない。翌日、東郭氏に不幸なことがあったので、家まで行って弔問することにした。それに対して弟子の公孫丑が

「昨日、病気を理由に参内を断ったのに、今日改めて外出するのはいかがなるものでしょうか? およしなさい」

と出掛けないことを勧めたが、孟子は

「昨日は病気だったが今日は治った。行かなければ」

と言って行ってしまった。そのようなことで自分の行動を制限されることを孟子は良しとしない。ところが孟子が出かけている間、宣王が病気見舞いの使者と医師を派遣してきたので、家で留守番をしていた弟子の孟仲子は慌てて、先程少し調子が良くなりまして、参内に参りました、とその場を取り繕った。そして、孟子の通りそうな場所に使者を派遣して、どうかご帰宅せずに、そのまま参内して下さい、と伝えた。それを聞いた孟子は、帰宅も参内もしないで友人の景丑の家に泊まった。景丑は王命に従わなかった孟子を非難した。これによって、孟子と宣王の関係がしっくりこなくなった。孟子はこの事件によって、を立ち去る気持ちを固めた。その後、とうとう孟子は斉を去ることにした。それを聞いた宣王は急いで孟子の家まで出向き、また会えるでしょうか? と聞いた。それに対して孟子は
敢へて請はざるのみ。固より願ふ所なり

と答えた。

「また会いたいと、こちらからは望みませんが、王とお会いするのは私としても嫌ではありません」

それで、宣王はまだ希望がある、と思った。数百人もの稷下の学士を抱えている宣王にしても、孟子のその激しい理想主義には辟易するが、現実的な政策で役に立ちそうではないとしても、この優れた人物を他国に持っていかれることも残念だと思った。そこで、孟子の弟子の陳子を通じて

「都心の大邸宅を与え、門弟養成のために一万鍾の俸禄を支給し、大臣をはじめ廷臣たちに孟子を尊敬させるようにする」

と伝えた。鍾は穀物を図る単位で、約五十リットルだと言われている。当時の一万鍾は、通説によれば、日本の江戸時代の禄高で千五百石足らずだという。しかし、孟子にはこれが少額だったと見え、
如し予をして富まむと欲せしむれば、十万を辞して万を受けんこと、是れ富まむと欲すると為さんや。

と断った。これは

「もし私の力で国を興したければ、十万鍾の俸禄を約束するべきです。私はそれを辞退して、一万鍾を受けましょう。これでは私のことを、冨貴を願っている、とは言えないはずです。」

という意味である。
[3]賤丈夫有り。必ず壟断を求めて之に登り、もつて左右望して市利を罔せり。人皆以て賤しと為す。故に従つて之を征せり。

と孟子は言った。

「昔、市では物々交換によって、お互いの納得する交易を行って、生活に必要な物を手に入れる場所でした。ところが、卑しい欲張りがいて、壟断(切り立ったような高い位置)に登って左右を見まわしたのです。普通は地面に自分の売り物を並べて交換するのですが、高所から見ると、良い物を売っている人をいち早く発見できます。そのような連中は、生活に必要な物を仕入れに来たのではなく、営利を上げるために来ているのです。何と嫌らしいことかと人々がこれを非難し、政府もこれに征(税のこと)を掛けることにしたのです。」

という意味だ。つまり、孟子は、自分はこんな卑しい欲張りではない、と言いたいのだ。「利益を壟断する」という用法はここからきている。

そして、孟子はいよいよを去る旅に出た。その折、孟子は昼という場所に三日も留まった。一度宣王の申し出をきっぱりと断っておきながら、まるで宣王の使いが来るのを待つかのようにゆっくり進むことが、孟子の評判を下げたようであった。斉の尹子と言う人物は孟子に憧れており、自分のことをますらおだと自負していた。だからこそ、昼に三日も逗留した、という話を聞いて、大きく失望した。

「俺は孟子を見損なった。面白くもない」

と尹子は言った。その話を弟子の高子から聞いた孟子は

「尹子という者は、俺を理解できていないのだ」

と言った。そして、
[4]予、三宿して昼を出づるも、予が心に於ては猶お速しと以為へり。王よ庶幾はくは之を改めよ。王如し諸を改むれば、則ち必ず予を反さん。夫れ昼を出ずるも王は予を追わざりなり。予、然る後に浩然として帰るの志有り。予、然ると雖も豈に王を舎てんや。

と言った。

「三日で昼を出たのは早すぎるくらいだ。もしも宣王があの後思い直して使者を送ってくれば、私は喜んで引き返す。すると、の民は豊かになる。もしも、あの後使者が来なくても、私は宣王を捨てない。それを考えると、王の使者が来るのが待ちどおしい」

という意味である。それを聞いた尹子は
士は誠に小人なり

と嘆いた。
孟子の思想

孔子はを説いたが、孟子はこれを発展させて仁義を説いた。仁とは「忠恕」(真心と思いやり)であり、「義とは宜なり」(『中庸』)というように、とは事物を適切に扱うことである。

孟子はその時代までにいた全ての君主を「王者」と「覇者」として、それらが行った政治を「王道」と「覇道」として分類した。

孟子によれば、覇者とは武力によって一時的な仁政を行う者であり、そのため大国の武力がなければ覇者となって人民や他国を服従させることはできない。対して王者とは、によって本当の仁政を行う者であり、そのため小国であっても人民や他国はその徳を慕って心服するようになる。故に孟子は、覇者を全否定はしないものの、「五覇は三王(夏の、殷の天乙、周の文王または武王)の罪人(出来損ない)なり。諸侯は五覇の罪人なり。大夫は今の諸侯の罪人なり」(告子章句下)と述べて当時群雄割拠していた諸侯たちを批判し、古のや三王が行ったような「先王の道」(王道政治)に回帰すべきと唱えた。


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