孟嘗君
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そして斉に攻め込んだ楽毅により?王は殺され[7]、斉は滅亡寸前にまで追い詰められたが、田単の知略によって復興し、やがて田文も再び斉に迎えられた。

襄王5年(紀元前279年)、田文は死去し、諡して孟嘗君と呼ばれるようになった。
子孫

その死後、彼の息子たちが跡目争いをしている隙を突いて本家の襄王は魏と連合して薛を攻めて、孟嘗君の子孫は消息不明となった。

前漢劉邦が薛を通過した時、孟嘗君の子孫を探し出し、その結果として孟嘗君の孫である田陵と田国を見つけた。劉邦は両人に領地を与えようとした。しかし、両人はお互いに譲り合っていたため、まとまらなかった。終いに両人は野に下って、沛郡竹邑県(現在の安徽省淮北市?渓県)に住居を構えて、田国の系統が薛氏と改称し、代々が州郡の長官を勤めた。その末孫がに仕えた薛綜であるという[8]
評価

司馬遷史記の旧跡を訪れた。そこには乱暴者が多かった。その理由を聞くと、「孟嘗君の招きで任侠が集まり、鶏鳴狗盗の類まで薛に移ってきた。その数は6万戸におよぶ」とのことだった。孟嘗君は客好きをもって知られるが、その評判は大げさではない、と評している[9]
脚注^ a b史記索隠』が引く『竹書紀年』魏紀では、孟嘗君は桓公(威王の父)の孫と記されており、「威王の甥」、「宣王の従弟」とする。
^ 裘は動物の毛を外側にした毛皮の衣。狐白裘は狐のわきの下の毛を集めて作られた裘。一般の狐裘は黄色である、狐白裘は白色。裘の中でも最高級品とされる。
^百人一首』の清少納言の句「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」は、この故事を踏まえている。
^ ただし、後代の北宋の宰相の王安石は、その著書『読孟嘗君伝』で「鶏鳴狗吠の其の門に出ずるは、之れ士の至らざる所以なり」と、鶏鳴狗盗の輩がその門下に集まったことが逆に斉に真の人材が集まらなかった原因をなしたと批判している。
^ 馮驩は『史記』の表記で、『戦国策』では馮?(ふうけん)と記される。
^ まず秦王に「孟嘗君が罷免されたので、この機会に秦の重鎮として取り込みましょう」と招聘の使者を送らせ、ついで斉王に「秦は孟嘗君を宰相にしようとしている。それを防ぐには彼を宰相の地位に復帰させ、禄を加増するしかない」と扇動し、両者を手玉にとるという壮大なものだった。
^ 宮城谷昌光著『楽毅』では楚国の将の?歯が?にて反逆したとある。
^三国志』『呉志』薛綜伝裴松之注が引く張勃『呉録』より。
^ 史記 孟嘗君列伝 第十五

孟嘗君を題材にした小説

宮城谷昌光『孟嘗君』講談社1995年










相邦丞相
相邦

樛?

張儀

楽池

樗里疾

田文

楼緩

魏?

燭寿

范雎

蔡沢

呂不韋

杜倉

丞相

樗里疾(右)と甘茂(左)

甘茂(右)と屈?(左)

向寿(?)

金受(?)と魏章(?)

金受(?)

楼緩(?)と金受(?)

?戎(左)

徐?(?)

昌平君(?)

昌平君(右)と昌文君(左)

昌平君(右)と隗状(左)

隗状(右)と王綰(左)

馮去疾(右)と李斯(左)

趙高(中)

年代不明

池子華

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