称徳天皇は次々と大寺に行幸し、西大寺の拡張や西隆寺の造営、百万塔の製作を行うなど仏教重視の政策を推し進めた。一方で神社に対する保護政策も厚かったが、伊勢神宮や宇佐八幡宮内に神宮寺を建立するなど神仏習合がさらに進んだ。また神社の位階である神階制度も開始されている。一方で『続日本紀』では、政治と刑罰が厳しくささいなことで極刑が行われ、冤罪を産んだと評されている[18]。神護景雲3年(769年)5月には称徳天皇の異母妹・不破内親王と氷上志計志麻呂が天皇を呪詛したとして、名を改めた上で流刑にされている。同じく称徳天皇の異母妹・井上内親王を妻としていた中納言・白壁王(後の光仁天皇)は天皇の嫉視を警戒し、酒に溺れた振りをして難を逃れようとしていた。ただし、天皇と井上内親王との関係は良好だったと推測され、淳仁天皇期に行われた保良宮設置の際に稲十万束(淳仁天皇の兄弟である船親王・池田親王と同額)を与えられ(『続日本紀』天平宝字5年10月壬戌条)、称徳天皇即位後も新羅船との交易代金として真綿が貴族たちに支給された際に夫の白壁王が既に大納言に対する相当額として一万屯が与えられているにもかかわらず、後日内親王個人に対しても同量が与えられる(『続日本紀』神護景雲年10月甲子・庚午条)など、破格の厚遇を受けている(これは天皇と対立関係であった姉妹の不破内親王にそうした待遇がなかったことからも特殊性がうかがえる)[20]。
神護景雲3年(769年)、大宰府の主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡宮の託宣を報じたとされた。これを確かめるべく、和気清麻呂を勅使として宇佐八幡宮に送ったが、清麻呂はこの託宣は虚偽であると復命した。これに怒った称徳天皇と天皇の地位を狙っていた道鏡は清麻呂を改名した上で因幡員外介として左遷し、さらに大隅国へ配流した(宇佐八幡宮神託事件)[21]。10月から11月にかけては造営した由義宮に行幸し、同地を西京とする旨を宣した。神護景雲4年(770年)2月、称徳天皇は再び由義宮に行幸した。 行幸翌月の3月なかばに発病し、病臥する事になる。このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。道鏡の権力はたちまち衰え、軍事指揮権は藤原永手や吉備真備ら太政官に奪われた[22]。8月4日、称徳天皇は平城宮西宮寝殿で崩御した。宝算53。 称徳天皇は生涯独身であり、子をなすこともなかった。『続日本紀』宝亀元年(770年)八月癸巳条によると、崩御にあたって藤原永手や藤原宿奈麻呂・吉備真備ら群臣が集まって評議し、白壁王を後継として指名する「遺宣」が発せられたという。白壁王は光仁天皇として即位する。 一方、『日本紀略』『扶桑略記』に引用された「藤原百川伝」によると、崩御後間もなく群臣が集まって評議し、吉備真備が文室大市もしくは文室浄三を推し、永手や宿奈麻呂・藤原百川は白壁王を推した。真備が自案に固執すると、永手らは白壁王を指名する称徳天皇の遺詔を読み上げた。このため白壁王が即位して光仁天皇となるが、この遺詔は偽造されたものであったという[23]。 河内祥輔は『古代政治史における天皇制の論理』において、「藤原百川伝」の記述が『水鏡』に継承され、『大日本史』にも採用されたことから、吉備真備が出し抜かれた、藤原百川が暗躍したとされる経緯が一般的になったと指摘する。河内は百川が光仁擁立時は政治に参画する立場に無く、百川が暗躍したとする所説は桓武天皇の立太子の事情が誤って語られたものであると指摘。現在ではこの説が広く支持されている。 上野正裕は称徳天皇から吉備由利を介して吉備真備に後継者に関する遺詔が示された可能性があり、それが文室大市もしくは文室浄三であったものの、他の廷臣がこれを拒絶して白壁王を擁立したとする説もある[24]。 なお、道鏡は失脚して下野国薬師寺別当に左遷され、弓削浄人も土佐に流された。墾田私有も宝亀3年(772年)に再開されている。 孝謙天皇には、自らに反抗したものに、卑しい名前をつけることをしばしばおこなった。 橘奈良麻呂の乱では 不破内親王の呪詛事件(これは誣告であった)では 宇佐八幡宮神託事件では など。 孝謙天皇・称徳天皇の系譜
崩御と後継
強制改名18世紀に描かれた女帝の肖像
道祖王 - 麻度比(まどひ=惑い者の意)
黄文王 - 久奈多夫禮(くなたぶれ=愚か者の意)
賀茂角足 - 乃呂志(のろし=鈍いの意か)
不破内親王 - 厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ=台所の下女の意か)
氷上川継 - 志計志麻呂(しけし=穢れる、荒れるなどの意。林陸朗の説)
和気清麻呂 - 別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)
和気広虫 - 別部狭虫(わけべのさむし)または、別部広虫売(わけべのひろむしめ)
系譜
16. 第40代 天武天皇
8. 草壁皇子
17. 第41代 持統天皇
4. 第42代 文武天皇
18. 第38代 天智天皇
9. 第43代 元明天皇
19. 蘇我姪娘
2. 第45代 聖武天皇
20. 藤原鎌足(=12)
10. 藤原不比等(=6)
21. 車持与志古娘
5. 藤原宮子
22. 賀茂小黒麻呂
11. 賀茂比売
1. 第46代 孝謙天皇・
第48代 称徳天皇
12. 藤原鎌足(=20)
6. 藤原不比等(=10)
13. 車持与志古娘(=21)
3. 藤原光明子(光明皇后)
14. 県犬養東人
7. 県犬養三千代
皇配:なし
子女:なし
同母弟:基王
異母兄弟姉妹:井上内親王・不破内親王・安積親王
系図
34 舒明天皇
古人大兄皇子 38 天智天皇
(中大兄皇子) 間人皇女(孝徳天皇后) 40 天武天皇
(大海人皇子)