パルメニデスは、ソクラテス以前の哲学者の中でも、自然・万物の根源について探求したイオニア学派、それまでのミレトス学派と異なり、宇宙論に先立って、「真理」を問い、これを現実の存在者でなく、存在と結びつけるという新しい哲学態度を示している。
プラトンプラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)
プラトンのイデア論は、パルメニデスの不生不滅の考えとヘラクレイトスの万物流転の考えを調和させようとした試みであると言われ、この現実の世界は仮象の生成流転する世界であって永遠に存在するものはなにもなく、イデアの世界こそ真実在であるとし、最高のイデアは、善のイデアであるとし、存在と知識の最高原理であるとした。
プラトンは、『国家』篇第五巻において、哲学者は、知を愛するが、その愛の対象は、イデアの世界の「あるもの」であるのに対し、ドクサを抱くにすぎない者の愛の対象は、仮象の世界の「あり、かつ、あらぬもの」であるとして存在論と知識を結び付けている。彼によれば、この宇宙は、神が質料(ヒュレー)からイデアを範型として制作したものであって、無から創られたものではない。彼の宇宙ないし自然に対する見方はソクラテス以前の哲学者のそれと決定的に異なっており、これがアリストレスに受け継がれていくことになった。
アリストテレスアリストテレス(紀元前384年 - 紀元前322年)
アリストテレスは、存在への問いを明確に立て体系化した最初の人物である[2]。彼は、「論理学」をあらゆる学問成果を手に入れるための「道具」(organon)であるとした上で、その学問体系を、「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分し、理論学を「自然学」と「形而上学」、実践学を「政治学」と「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した。アリストテレスによれば、形而上学は存在するものについての「第一哲学」であり、始まりの原理についての知である。すなわち、存在者のさまざまな特性を問う個別科学とは区別され、その上位に位置づけられる究極の学問として、「存在者である限りでの存在者」、「全体としての存在者」、すなわち「存在とは何か」を問う学問を構想し、これを「第一哲学」と呼んだ。
アリストレスは、まず、道具である論理学において、「述語」(命題「PはQである」というときの「Qである」にあたる)の種類を10のカテゴリに区分し[3]、次いで、形而上学において、存在者を多義的なものであるとして、存在をカテゴリに従って10に分類した。
パルメニデスは、存在を当時の通念に従って完全な「球体」であり、それは「一つ」であるとしたが、アリストテレスは、それを比喩にすぎないとして、現実の個物を実体とし、「多様」な存在をカテゴリに従って分類し体系化した。
アリストテレスは、その著書『形而上学』において、有を無、無を有と論証するのが虚偽であり、有を有、無を無と論証するのが真であるとした。そこでは、「有・無」という「存在論」が基礎にあり、これを「論証する」という「判断」が支えている。そこでは、存在論が真理論と認識論とに分かちがたく結び付けられている。
彼の学問体系は、その後、トマス・アクィナスらを介して古代・中世の学問体系を規定することとなったが、そこでは、認識論的な問題は常に存在論と分かちがたく結び付いていた。そのため、形而上学の中心的な問題は、近代に至るまで常に存在論であった。
アリストテレスは、質料が形相と結び付いて、その可能性を実現して目的を達成することを「デュナミス」と「エネルゲイア」ないし「エンテレケイア」の概念を区別することによって行なったが、中世のスコラ哲学では、この区別が、「○○が何であるか」という「本質存在」(essentia)と、「○○があるかないか」という「事実存在」(existentia)の区別として概念化され、「本質存在の優位」が説かれるようになった。これらは○○という事実にイデアないしエイドスという本質が優先するという考えである点で共通しており、いずれも神によってモデルに従って制作ないし創造された宇宙・自然という見方と繋がっている。アリストテレスは、プラトンのイデア論を厳しく執拗に批判したが、その肝要部分は決して手放していないのであった。