存在論
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後期ハイデッガーの哲学は、「故郷の喪失[5]が世界の運命となる。それゆえに、この世界を存在史的に思索することが必要となる」として、一種の静寂主義へと向かった。

ニコライ・ハルトマンは、もともとは新カント派に属していたが、やがてフッサールの現象学の影響を受けて、これを独自に発展させ、理念的・意味的な存在者をも自身の存在論の射程に収めるなど、認識さえも人間が他の存在者と結ぶ存在関係の一つとみなし、批判的存在論を展開した。ハイデッガーの基礎的存在論があくまで現象学を方法論として採用し、その射程内に収まっているのに対し、ハルトマンの存在論は認識論に対する存在論の優位を認めるものであった。
サルトルとメルロ=ポンティ フランス実存主義サルトル

ドイツ発祥の現象学は、その後、フランスにおいて受容されたが、その影響は、フッサール自身の思想も時期により異なる内容を持つだけでなく、ハイデッガーにおいては現象学は方法論としての限定的な意義を有するにすぎなかったため様々である。サルトルとメルロ=ポンティが誰のどの時期のどの著作を読んで影響を受けたのかが両者の存在論の違いを生んだ。サルトルはフッサールのイデーン1巻とまだ存在論の優位か実存論的分析の優位が決めかねていた時代のハイデッガーしか読んでいなかったが、メルロ=ポンティはフッサールの未完成稿を含めた後期思想を含む本を読んでいた。

フランス実存主義の祖サルトルは、主著『存在と無?現象学的存在論の試み』(1943年)において、今まさに生きている自分自身の存在である実存を中心とする存在論を展開した。サルトルの思想は、特に無神論的実存主義と呼ばれ、自身の講演「実存主義はヒューマニズムであるか」において、プラトン・アリストテレスに起源を有する「本質存在が事実存在に先立つ」という伝統的形而上学のテーゼを逆転して「実存は本質に先立つ」と主張し、「人間は自由という刑に処せられている」と述べた。もし、すべてが無であり、その無から一切の万物を創造した神が存在するならば、神は神自身が創造するものが何であるかを、あらかじめわきまえている筈である。ならば、あらゆるものは現実に存在する前に、神によって先だって本質を決定されているということになる。この場合は、創造主である神が存在することが前提になっているので、「本質が存在に先だつ」ことになる。しかし、サルトルはそのような一切を創造する神がいないのだとしたらどうなるのか、と問う。創造の神が存在しないというならば、あらゆるものはその本質を(神に)決定されることがないまま、現実に存在してしまうことになる。この場合は、「実存が本質に先だつ」ことになり、これが人間の置かれている根本的な状況なのだとサルトルは主張する。サルトルにとって、現象学によって把握される即自存在と対自存在の唐突で無根拠な関係は、即時存在の幻影的な存在の根拠になっている。いずれにせよ、そこでは現象学に還元し得ない存在としての実存が問題にされている。

メルロ=ポンティは、後期フッサールの生活世界に焦点を当てて、これを乗り越えようとした。彼は、『知覚の現象学』(1945年)において、知覚・身体を中心に据えて幻影肢の現象を分析し、自然主義と観念論を批判する。その前提となる、デカルト的なコギトにとって「私の身体」は世界の対象の一つであり、仮に、そのような前提が正しいとすれば、私の意識が、客観的にない脚に痒みを感じることはないはずである。彼は、デカルト的伝統を受け継ぐサルトルのように対自主体、即自客体を明確に二分することに誤りがあり、両者を不可分の融合的統一のうちにとらえられるべきであると主張する。主体でも客体でもあると同時に主体でも客体でもない裂開の中心である両義的な存在、それが身体である。生理的な反射でさえ、生きた身体が環境に対して有する全体的態度、意味の把握を伴うし、その全体性は決して私の反省的意識に還元し尽くされることはない。私と世界の間の身体による関係は、全体的な構造であるばかりでなく、時間的に発展する構造でもある。彼にとって即自存在と対自存在の対立は、以上のような構造を有する、より一層深い媒介の所産であり、ここでは現象学より存在論が優位する。

その後、フランスの現代思想において、サルトルとクロード・レヴィ=ストロースの論争をきっかけに、1960年代に入って構造主義が台頭するが、メルロ=ポンティの身体論は構造主義の準備ないしその橋渡しになったと評価する向きもある。
新トマス主義

トマスの思想は、近代的認識論の成立により、急速に衰え始めたが、19世紀になると、新トマス主義の存在論として復活した。

新トマス主義には、人格神たる神が存在するという神学的な立場を前提に、トマスの哲学を研究しようとするもの、そのような立場については判断を留保し、現代的な哲学・科学の成果を取り入れ、修正すべき点は修正した上でトマス哲学を研究しようとするものの二つに大きく分かれるといってよい。特に論争となっている点は、カントによる批判哲学、認識論の研究成果については、エティエンヌ・ジルソンのように、存在論に対する認識論的優位を認めてしまうと、結局は観念論に行き着いてしまうことからする消極的な立場と、むしろトマスの哲学には認識論的に示唆に富む記述が多いとしてこれを現代的に修正していこうとする立場がある。
分析的形而上学
論理実証主義の失敗とクワイン

ウィーン学団から始まった論理実証主義は、けっして一つの主張で固まっていたわけではないものの、経験主義を基礎に実在論を主張するものが多くいた。そして、経験主義の伝統においては、真理とは、観念と実在の対応であり、その場合の観念とは、一つの名辞を単位に考えられていた。カルナップらの論理実証主義は、この単位を一つの言明に置き換えた。つまり、ここでは、直接的経験によるセンス・データ(感覚所与)言語に翻訳可能であれば、この言明は有意味であると考えられた。

しかしながら、ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインによれば、このように実在と観念の対応を一つの名辞、一つの言明に分解していく還元主義は不可能であり、われわれの認識は一つの言語体系であり、したがって、とある信念を検証するにあたっては、一つの理論の全体との関係で、経験の審判を仰がねばならず、そのコロラリーとして、分析的真理と総合的真理は区別することはできない。


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