存在論
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つまり、従来の存在論は、「存在者」(das Seiende)と存在者を存在者たらしめている「存在」(das Sein)との区別、すなわち「存在論的差異」を忘却してきた(存在忘却[4] Seinsvergessenheit)。彼は、この点を批判し、あくまで存在そのものの「意味」を問おうとし、そのための方法論として現象学を採用し、志向性を「関心」(Sorge)と呼び、「存在的」(ontischen)なあり方と「存在論的(ontologisch)なあり方を区別した。彼によれば、すべての存在者の中でも、存在論的な在り方において、存在の意味について関心を持ち、理解し得る可能性のあるのは、理性ある「人間」のみであるが、「ひと」(das Man、世人)は、日常においては、存在忘却のため、本来の自己をもたず、他人一般に支配され「世間」に埋没している。したがって、存在忘却から脱し、存在そのものの意味を解明する準備として、人間たる現存在がどのような構造をもつかを分析する必要があるとし、この現存在の分析論を「基礎的存在論」(Fundamentalontologie)と呼び、すべての存在者の意味に関する存在論の基礎を与えるものとした。彼によれば、基礎的存在論は、個人の実存的体験を基礎としない心理学的な人間分析であってはならず、また、個人の実存的体験のみを基礎とする「実存的分析」であってもならず、これと区別された「実存論的分析」(existentiale Analytik)でなければならない。この分析の結果、ハイデッガーは、現存在の根本的存在規定である「関心」の意味が「時間性」(Temporalitat)にあるとした。ハイデッガーは、現存在が自己を「時間化」する方法は本来的なそれと非本来的なそれの二つがあり、それに応じて存在了解も変わってくると自説を展開した。存在の意味が変われば、その視点のもとに見られる存在者全体の在り方とそれとの現存在の関わり方、すなわち、文化の形成の仕方も変化する。本来的なそれにおいては、その時間化はまず未来への先駆として生起し、そこから過去が反復され、そして現在は瞬間として生きられるが、存在忘却の下にある世人は非本来的なそれの中に生きており、未来は漠然とした期待のうちで開かれ、過去は忘却され、現在は現に眼前にある事物への現前として出現するだけである。したがって、人間が自己を本来的に時間化することができれば、未来が優越する緊密な時間の流れの中で、反復される歴史を解体し、現在の瞬間を自由に生きることが可能になる。そして、ハイデッガーは、哲学の歴史、すべての形而上学の「解体」(Destruktion)を始める。彼によれば、西洋哲学の歴史は、プラトン・アリストテレスに起源を有し、スコラ哲学によって定式化された「本質存在の優位」という思想が形を変え、品を変え登場するだけであり、それはデカルト・カントの近世哲学からニーチェに至るまで何ら進歩も変化もしていないとする。それは、何らかの本質によって制作されて存在するという宇宙・自然という見方であり、人間以外の存在者、宇宙・自然界の存在者すべてを「道具」とみる人間中心的な「閉存」の立場である。それは、ソクラテス以前の哲学者が宇宙・自然を機械的・道具的なものではなく、生き生きとした自ら成るものという見方をしていたことと対照的である。ハイデガーは、プラトンに端を発する上のような見方に基づく西洋哲学の歴史すべてを解体し、存在忘却が勢力をふるう近代を転換し、歴史を支配する存在そのものに耳を傾け従いながら、それを守蔵することを試みた。後期ハイデッガーの哲学は、「故郷の喪失[5]が世界の運命となる。それゆえに、この世界を存在史的に思索することが必要となる」として、一種の静寂主義へと向かった。

ニコライ・ハルトマンは、もともとは新カント派に属していたが、やがてフッサールの現象学の影響を受けて、これを独自に発展させ、理念的・意味的な存在者をも自身の存在論の射程に収めるなど、認識さえも人間が他の存在者と結ぶ存在関係の一つとみなし、批判的存在論を展開した。ハイデッガーの基礎的存在論があくまで現象学を方法論として採用し、その射程内に収まっているのに対し、ハルトマンの存在論は認識論に対する存在論の優位を認めるものであった。
サルトルとメルロ=ポンティ フランス実存主義サルトル

ドイツ発祥の現象学は、その後、フランスにおいて受容されたが、その影響は、フッサール自身の思想も時期により異なる内容を持つだけでなく、ハイデッガーにおいては現象学は方法論としての限定的な意義を有するにすぎなかったため様々である。サルトルとメルロ=ポンティが誰のどの時期のどの著作を読んで影響を受けたのかが両者の存在論の違いを生んだ。サルトルはフッサールのイデーン1巻とまだ存在論の優位か実存論的分析の優位が決めかねていた時代のハイデッガーしか読んでいなかったが、メルロ=ポンティはフッサールの未完成稿を含めた後期思想を含む本を読んでいた。

フランス実存主義の祖サルトルは、主著『存在と無?現象学的存在論の試み』(1943年)において、今まさに生きている自分自身の存在である実存を中心とする存在論を展開した。サルトルの思想は、特に無神論的実存主義と呼ばれ、自身の講演「実存主義はヒューマニズムであるか」において、プラトン・アリストテレスに起源を有する「本質存在が事実存在に先立つ」という伝統的形而上学のテーゼを逆転して「実存は本質に先立つ」と主張し、「人間は自由という刑に処せられている」と述べた。もし、すべてが無であり、その無から一切の万物を創造した神が存在するならば、神は神自身が創造するものが何であるかを、あらかじめわきまえている筈である。ならば、あらゆるものは現実に存在する前に、神によって先だって本質を決定されているということになる。この場合は、創造主である神が存在することが前提になっているので、「本質が存在に先だつ」ことになる。しかし、サルトルはそのような一切を創造する神がいないのだとしたらどうなるのか、と問う。創造の神が存在しないというならば、あらゆるものはその本質を(神に)決定されることがないまま、現実に存在してしまうことになる。この場合は、「実存が本質に先だつ」ことになり、これが人間の置かれている根本的な状況なのだとサルトルは主張する。サルトルにとって、現象学によって把握される即自存在と対自存在の唐突で無根拠な関係は、即時存在の幻影的な存在の根拠になっている。いずれにせよ、そこでは現象学に還元し得ない存在としての実存が問題にされている。

メルロ=ポンティは、後期フッサールの生活世界に焦点を当てて、これを乗り越えようとした。彼は、『知覚の現象学』(1945年)において、知覚・身体を中心に据えて幻影肢の現象を分析し、自然主義と観念論を批判する。その前提となる、デカルト的なコギトにとって「私の身体」は世界の対象の一つであり、仮に、そのような前提が正しいとすれば、私の意識が、客観的にない脚に痒みを感じることはないはずである。彼は、デカルト的伝統を受け継ぐサルトルのように対自主体、即自客体を明確に二分することに誤りがあり、両者を不可分の融合的統一のうちにとらえられるべきであると主張する。主体でも客体でもあると同時に主体でも客体でもない裂開の中心である両義的な存在、それが身体である。


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