字通
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そして、このことは原初に成立した文字の多くについて、いうことができるという[29]
『字統』から『字訓』へ
当用漢字表の施行によって漢字はその字形や用義法の上に著しい制約が加えられ、国語が危機的な状況にあった。このような中で白川は所見を述べておく必要を感じ、『漢字』を刊行した。『字統』はそのような作業の一つの収束をなすものであった。その『字統』において、漢字の字形構造が明らかとなるならば、次には国字として、字の訓義的用法に及ばなければならない。これによって『字統』において試みたところがはじめて意味をもちうることになろうと白川はいう。そして、『字統』の刊行につづいて世に送ったその『字訓』は、白川の意図する東アジア的な古代の中で日本の古代を考えようとする、基本的な志向のうちから生まれたものであり、その一つの収束である[71][72]
まえがき
三部作の巻頭には長文のまえがきの「字統の編集について」「字訓の編集について」「字通の編集について」がある。字書には異例ともいえるこの長文のまえがきには、各書の編集意図とその方法とについて記されているが、これは大槻文彦の『言海』に類似する。「字書を作るということが私にとって一の宿命であったのかも知れない。その最初の機縁となったものは、『言海』であった。」と白川はいう。白川が書物を読み始めたころ、古語辞典の類を求めたいと思い、まず『言海』を求めた。白川は『言海』について、「このわが国最初の古語辞典は、大槻氏が自ら親炙していた欧米辞書の編纂法を範とし、ヨーロッパの辞書編纂の事業に触発されて行われたということが、私には一つの驚きであった。(趣意)」との感想を述べている。その『言海』の巻頭には長文の「本書編纂の大意」という序文があり、その書の編集の目的と方法とが記されている[73]
文字学の資料羅振玉

漢字にはその最古の資料である殷王朝の甲骨文が大量に発見されており、当時の文字の全体を知ることができる。その最初の著録である劉鶚の『鉄雲蔵亀』が1903年に出て、その後、羅振玉(『殷虚書契考釈』、1914年)や王国維(『?寿堂所蔵殷虚文字考釈』、1919年)らが研究を加え、今日に至るまでに多くの著録の書が出された。甲骨文の資料からは、その象形的な初形から次第に字形化されてゆく過程の終始を追跡することができるものもある。このような文字形成期の資料がこれほど豊富にその全時期にわたって存在するということは他に例を見ない。金文の資料も時期的に古いものは甲骨文と並行して存在する。それらは概ね白川の『金文通釈』に収録されている[74][75]
日本の古代文字学
甲骨文・金文の学は日本においても早くから注目され、林泰輔が釈文を付して刊行した『亀甲獣骨文字』(1917年)をはじめとして、その翌年より高田忠周の『古籀篇』の刊行がはじまり、また中島竦の『書契淵源』(1937年)が出された。『古籀篇』100巻は当時利用することのできた甲骨文・金文を網羅し、『書契淵源』5帙は金文資料をまとめている。両書とも『説文解字』の字説に拘束されることなく字形学的な研究を試みたものである。特に『古籀篇』は中国の文字学界に大きな影響を与えた[76]
本書の引用の書名
説文解字校定説文解字』(『大徐本』)以下に本書の引用書を記す[77]

説文解字』(後漢許慎、『説文』とも)

『刊定説文解字』(李陽冰、亡佚)

校定説文解字』(徐鉉、『大徐本』とも)

説文?伝』(南唐徐?、『?伝』『小徐本』とも)

『恵氏読説文記』(恵棟

説文解字注』(清・段玉裁、『段注』『段注本』とも)

『説文段注箋』(清・徐灝)

『説文解字義証』(清・桂馥)

『説文通訓定声』(清・朱駿声)

『説文解字群経正字』(清・邵瑛、『群経正字』とも)

『説文句読』(清・王?

『説文釈例』(清・王筠)

『説文広義校訂』(清・呉善述、『広義校訂』とも)

『字説』(清・呉大澂

『児笘録』(清・兪?

『説文管見』(清・胡秉虔)

殷虚書契考釈』(清・羅振玉

『史籀篇疏証』(清・王国維、『史籀篇』とも)

『文源』(民国・林義光)
以上の諸書は、丁福保の『説文解字詁林』・『説文解字詁林補遺』に集録されている。

『通志、六書略』(南宋鄭樵、『六書略』とも)

『六書故』(・戴侗)

『説文解字六書疏証』(民国・馬叙倫、『六書疏証』とも)

毛詩草木鳥獣虫魚疏』(陸璣

経典釈文』(唐・陸徳明、『釈文』とも)

一切経音義』(唐・釈玄応、『玄応音義』とも)

一切経音義』(唐・釈慧琳、『慧琳音義』とも)

『続一切経音義』(・釈希麟)

『新訳大方広仏華厳経音義』(唐・釈慧苑)

『古籀篇』(高田忠周

『書契淵源』(中島竦

説文新義』(白川静

関連する白川の著作」の甲骨文(正面を向いて立つ人の胸に「×」の形の文身を加えた形[78]「文」の金文(同じく「」の形の文身を加えた形[78]
甲骨金文学論叢

「甲骨金文学論叢」(こうこつきんぶんがくろんそう、1955年 - 1962年)は、白川文字学の体系を築いた実証的論文集で、20篇の論文からなり、後の『説文新義』や字書三部作の土台となった。昭和30年(1955年)より昭和33年(1958年)までの間に9集を発行し、昭和37年(1962年)に10集とした[40][79]

1集…「釈史」、「釈文

2集…「作冊考」、「召方考」

3集…「釈師」

4集…「載書関係字説」

5集…「殷代雄族考」

6集…「殷代雄族考」

7集…「殷代雄族考」、「媚蠱(びこ)関係学説」

8集…「殷代雄族考」、「辠辜(ざいこ)関係学説」

9集…「羌(きょう)族考」

10集…「釈南」、「蔑(べつ)暦解」

白川は、これらの論考を草するために卜文の体系的な理解が必要であるとし、3万片に近い卜片を手写し、その解読に努めた。本書の内容は字源論と殷代雄族(部族)論とに大別でき、字源論には、「釈史」、「釈文」、「作冊考」、「釈師」、「釈南」、「蔑暦解」があり、雄族論には、「召方考」、「殷代雄族考 1 - 7」、「羌族考」がある。その他に系列字関係の字説として、「載書関係字説」、「媚蠱関係学説」、「辠辜関係学説」がある[40][79]

釈史は、「史」字の起原を追求する趣旨で書かれ、「」(さい)字形がとりあげられ、祝告器とする説が提出された。「史」は祝告を示すを神桿に著けて、これを手に捧げる形である[79][80]


釈文は、「」字が身体装飾としての文身を示す字であること、そのような文身の風は太平洋圏に広く分布しており、中国の古代文字に文身関係の字(彦(彥)・顔(顏)・爽・爾など)が多くみられることなどを論じている[80]

金文通釈

『金文通釈』(きんぶんつうしゃく、1962年 - 1984年)は、両周の金文銘辞の主要なものに詳細な考釈を加えたもの。郭沫若の『両周金文辞大系考釈』(1935年)があるが、その後の出土も多く、また郭の釈も簡略なものであるのでこれを補った[40]
説文新義

『説文新義』(せつもんしんぎ、1969年 - 1974年、全16巻)は、『説文解字』についての講義案を刊行したもので、『甲骨金文学論叢』を土台にしている。甲骨文・金文を知らずに組み立てられた『説文』の学説を甲骨文・金文の字形に基づく体系を構築することによって大きく書き換えた[46]


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