字通
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よって、この基本形であるの系列に属する数十の基本字と、またその関連字とはすべて解釈を改めなくてはならないのである[54][55][56][57][58][59]
書写の効力
白川はトレーシングペーパーで甲骨文の書き写しをした。「カメラやコピーではいけない。甲骨文にトレーシングペーパーを載せ、上からなぞっていくことに意味がある。手で覚え、肉体化されたものは、いわば未分の全体を含む。手で写して新しく得た資料は、すでにある資料と感じあい、重畳し、互いに意味づけをしてゆく。そういう過程のなかで、私が写しつづけた文字は、皆自らの素性を明らかにしてきた。(趣意)」と、トレーシングペーパーでなぞるうちに古代人がどのような思いで甲骨文を書いたかがわかったという[60]
文字学の歩み
「古代文字の研究は、まず甲骨文・金文の研究から出発しなければならない。しかし、説文学の従来の成果についても無視すべきではない。多くの先学の所説にも耳を傾け、その是非を考え、今日の知見を以てその訂すべきを訂し、ついで自説を提示する方法をとった。」と、白川は文字学の研究姿勢をこのように述べている。そして、「許慎が『説文解字』を書いた時には、甲骨文や金文は地下に埋もれていたが、それであれだけの体系を立てたというのは、やはり偉大であったと思う。もし許慎が今生きておれば、おそらく僕と同じ仕事をして、同じ結論に達したと思う。(趣意)」と、自らの研究成果を自負している[61][62]
字書三部作

『字統』(字源辞典)・『字訓』(古語辞典)・『字通』(漢和辞典)の三書を字書三部作と称す。3冊で約4,000ページに及ぶこの三部作は、白川文字学の集大成とされる[63]

石牟礼道子は、「古代中国は殷帝国の甲骨文・金文を、東アジアに生まれた始源の文化として位置づけられ体系化され、ヨーロッパとはあきらかに異なる文化の位相を、現代の退化しつつある東洋と日本に示された。お仕事の頂点とされる三部作の字書『字統』『字訓』『字通』の完成がそれである。」と評している[64]
経過
高橋和巳の評論集『わが解体』に次のような一節がある。立命館大学中国学を研究されるS教授[65]の研究室は、京都大学紛争の期間をほぼ等しくする立命館大学の紛争の全期間中、全学封鎖の際も、研究室のある建物の一時的封鎖の際も、それまでと全く同様、午後11時まで煌々と電気がついていて、地味な研究に励まれ続けていると聞く。(中略)その教授はもともと多弁の人ではなく、また学生たちの諸党派のどれかに共感的な人でもない。しかし、団交に出席すれば、一瞬、雰囲気が変わるという。無言の、しかし確かに存在する学問の威厳を学生が感じてしまうからだ[66][67]。もともと学問一筋の白川は、正月三が日を除き、日曜も含めて毎日研究室に通い、朝から午後11時まで研究室にこもって甲骨文・金文の文字資料を研究していた。そして、昭和30年(1955年)から「甲骨金文学論叢」をまとめ、ついで『金文通釈』、『説文新義』と、専門的な仕事を続けてきた。それから、自身の文字学を一般読者に提供するために一般書として刊行することを考え、その第一号となったのが岩波新書の『漢字』(1970年)である。そして、『詩経』(1970年)、『金文の世界』(1971年)、『甲骨文の世界』(1972年)、『孔子伝』(1972年)、『漢字の世界』(1976年)、『中国の古代文学』(1976年)、『漢字百話』(1978年)など、しばらくそのような著作を試みた。が、それまで字書を編集する機会はなかった。白川73歳の時、かねてより意図していた字源字書の編纂(『字統』)、その和訓による国字化の過程の追迹(『字訓』)、さらには従来の辞書において、なお達成されていない辞書のあるべき姿を模索するということ(『字通』)が、白川の課題としてまだ残されていた。つまり、これら字書三部作を執筆、完成することが白川の宿願であった。退職後、直ちに執筆にかかり、1年で『字統』を書き、また1年で『字訓』を書いた。そして最後に漢字の形・音・義の関係をも統説する『字通』を書いたが、この書は分量も多く、種々検討を要することもあって、11年半を要した。白川は、「ほぼ予定した期間内にこの三部作を刊了しえたことは、天佑に近いことであった。念ずれば花開くというが、私も仕事をするときには、祈る気持ではじめる。この三部作も、私の保護霊が見守ってくれていた結果であるかも知れない。」と語っているが、その言葉は白川の没後、長女の津崎史がまとめた『桂東雑記』(けいとうざっき)の5冊目の「字書三部作について」に綴られている[40][66][68][69]
字源からの展開
」の甲骨文(鳥の形でと同じ形[70])字源の書である『字統』を最初に作った理由について、「字源が見えるならば、漢字の世界が見えてくるはずである。従来、黒いかたまりのように見られていた漢字の一字一字が、本来の生気を得て蘇ってくるであろう。漢字は記号の世界から、象徴の世界にもどって、その生新な息吹きを回復するであろう。」と述べている。また、「字源の学は、字源の学だけに終わるものではない。原初の文字には原初の観念が含まれている。神話的な思惟をも含めて、はじめて生まれた文字の形象は、古代的な思惟そのものである。」といい、例として、「風」の多義性がその古代的な思惟からの展開によるものと説いている[1][40][29]。風は、もと鳳の形に書かれ、鳥形の神であった。四方にそれぞれ方域を司る方神が居り、その方神の神意を承けて、これをその地域の風行し伝達するものが鳳、すなわち風神であった。風土風俗のように一般的なものより、人の風貌・風気に至るまで、すべてはこの方神の使者たる風神のなるところであった。風の多義性は、風という字が成立した当時の、風のもつ古代的な観念に内包するものとして、そこから展開してくる。そして、このことは原初に成立した文字の多くについて、いうことができるという[29]
『字統』から『字訓』へ
当用漢字表の施行によって漢字はその字形や用義法の上に著しい制約が加えられ、国語が危機的な状況にあった。このような中で白川は所見を述べておく必要を感じ、『漢字』を刊行した。『字統』はそのような作業の一つの収束をなすものであった。その『字統』において、漢字の字形構造が明らかとなるならば、次には国字として、字の訓義的用法に及ばなければならない。これによって『字統』において試みたところがはじめて意味をもちうることになろうと白川はいう。そして、『字統』の刊行につづいて世に送ったその『字訓』は、白川の意図する東アジア的な古代の中で日本の古代を考えようとする、基本的な志向のうちから生まれたものであり、その一つの収束である[71][72]
まえがき
三部作の巻頭には長文のまえがきの「字統の編集について」「字訓の編集について」「字通の編集について」がある。字書には異例ともいえるこの長文のまえがきには、各書の編集意図とその方法とについて記されているが、これは大槻文彦の『言海』に類似する。「字書を作るということが私にとって一の宿命であったのかも知れない。その最初の機縁となったものは、『言海』であった。」と白川はいう。白川が書物を読み始めたころ、古語辞典の類を求めたいと思い、まず『言海』を求めた。白川は『言海』について、「このわが国最初の古語辞典は、大槻氏が自ら親炙していた欧米辞書の編纂法を範とし、ヨーロッパの辞書編纂の事業に触発されて行われたということが、私には一つの驚きであった。(趣意)」との感想を述べている。その『言海』の巻頭には長文の「本書編纂の大意」という序文があり、その書の編集の目的と方法とが記されている[73]
文字学の資料羅振玉

漢字にはその最古の資料である殷王朝の甲骨文が大量に発見されており、当時の文字の全体を知ることができる。その最初の著録である劉鶚の『鉄雲蔵亀』が1903年に出て、その後、羅振玉(『殷虚書契考釈』、1914年)や王国維(『?寿堂所蔵殷虚文字考釈』、1919年)らが研究を加え、今日に至るまでに多くの著録の書が出された。甲骨文の資料からは、その象形的な初形から次第に字形化されてゆく過程の終始を追跡することができるものもある。このような文字形成期の資料がこれほど豊富にその全時期にわたって存在するということは他に例を見ない。金文の資料も時期的に古いものは甲骨文と並行して存在する。それらは概ね白川の『金文通釈』に収録されている[74][75]
日本の古代文字学
甲骨文・金文の学は日本においても早くから注目され、林泰輔が釈文を付して刊行した『亀甲獣骨文字』(1917年)をはじめとして、その翌年より高田忠周の『古籀篇』の刊行がはじまり、また中島竦の『書契淵源』(1937年)が出された。『古籀篇』100巻は当時利用することのできた甲骨文・金文を網羅し、『書契淵源』5帙は金文資料をまとめている。両書とも『説文解字』の字説に拘束されることなく字形学的な研究を試みたものである。特に『古籀篇』は中国の文字学界に大きな影響を与えた[76]
本書の引用の書名
説文解字校定説文解字』(『大徐本』)以下に本書の引用書を記す[77]


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