字通
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これは一例にすぎないが、中国古代社会において、文学はもちろんのこと、思想制度風俗もすべてが存在していたのである[46][47][48]
さい
「吉」の甲骨文(を組み合せた形。士は小さなの刃部を下に向けた形。鉞は邪悪なものを追い払う力を持つとされたので、「吉」は、祝詞の呪能を守ることを意味する[49][50]」(エツ)の篆文の蓋を少し開いて、中の祝詞の書を見る形[51][52])白川文字学のポイントはさい)の提唱(#さいの提唱を参照)にある。古代人は、多くの時間とエネルギーを「邪気」を祓う呪術のために消費していた。白川の説はそこから始まる[53][54]。古代中国における戦いはまず呪術による攻防として行われ、その呪術的な戦いは言葉によって展開した。そして、その言葉のもつ呪的な機能を定着し、永久化するために文字が作られた。呪術の攻撃防禦は、文字の呪能を託された祝詞の器のに対して加えられる。よって、には様々な武具が防禦のために用意された。を加えた「吉」(呪能を守ること。詰めるが原義)、を加えた「古」(呪能を長い間保持すること)、「古」をさらに厳重に守るために外囲を加えた「固」(呪能を守り固めること)などはその祝詞の呪能を保全するための防禦的方法である。一方、の防禦を攻撃して破るためにはを汚す文字が用いられる。「舎」(すてる)と「害」(そこなう)は、いずれも長い刃をもってを突き通す形であり、そのような方法で呪能は失われると考えられた。また、「沓」(けがす)は、蓋が少し開いた(エツ))に水をかけて祝詞を汚すことで、これも呪能を奪う方法であった。『説文解字』以来の学者たちの誤解のもとは、このの単なる象形と解し、文字映像におけるその象徴的意味を把握しえなかった点にある。よって、この基本形であるの系列に属する数十の基本字と、またその関連字とはすべて解釈を改めなくてはならないのである[54][55][56][57][58][59]
書写の効力
白川はトレーシングペーパーで甲骨文の書き写しをした。「カメラやコピーではいけない。甲骨文にトレーシングペーパーを載せ、上からなぞっていくことに意味がある。手で覚え、肉体化されたものは、いわば未分の全体を含む。手で写して新しく得た資料は、すでにある資料と感じあい、重畳し、互いに意味づけをしてゆく。そういう過程のなかで、私が写しつづけた文字は、皆自らの素性を明らかにしてきた。(趣意)」と、トレーシングペーパーでなぞるうちに古代人がどのような思いで甲骨文を書いたかがわかったという[60]
文字学の歩み
「古代文字の研究は、まず甲骨文・金文の研究から出発しなければならない。しかし、説文学の従来の成果についても無視すべきではない。多くの先学の所説にも耳を傾け、その是非を考え、今日の知見を以てその訂すべきを訂し、ついで自説を提示する方法をとった。」と、白川は文字学の研究姿勢をこのように述べている。そして、「許慎が『説文解字』を書いた時には、甲骨文や金文は地下に埋もれていたが、それであれだけの体系を立てたというのは、やはり偉大であったと思う。もし許慎が今生きておれば、おそらく僕と同じ仕事をして、同じ結論に達したと思う。(趣意)」と、自らの研究成果を自負している[61][62]
字書三部作

『字統』(字源辞典)・『字訓』(古語辞典)・『字通』(漢和辞典)の三書を字書三部作と称す。3冊で約4,000ページに及ぶこの三部作は、白川文字学の集大成とされる[63]

石牟礼道子は、「古代中国は殷帝国の甲骨文・金文を、東アジアに生まれた始源の文化として位置づけられ体系化され、ヨーロッパとはあきらかに異なる文化の位相を、現代の退化しつつある東洋と日本に示された。お仕事の頂点とされる三部作の字書『字統』『字訓』『字通』の完成がそれである。」と評している[64]
経過
高橋和巳の評論集『わが解体』に次のような一節がある。立命館大学中国学を研究されるS教授[65]の研究室は、京都大学紛争の期間をほぼ等しくする立命館大学の紛争の全期間中、全学封鎖の際も、研究室のある建物の一時的封鎖の際も、それまでと全く同様、午後11時まで煌々と電気がついていて、地味な研究に励まれ続けていると聞く。(中略)その教授はもともと多弁の人ではなく、また学生たちの諸党派のどれかに共感的な人でもない。しかし、団交に出席すれば、一瞬、雰囲気が変わるという。無言の、しかし確かに存在する学問の威厳を学生が感じてしまうからだ[66][67]。もともと学問一筋の白川は、正月三が日を除き、日曜も含めて毎日研究室に通い、朝から午後11時まで研究室にこもって甲骨文・金文の文字資料を研究していた。そして、昭和30年(1955年)から「甲骨金文学論叢」をまとめ、ついで『金文通釈』、『説文新義』と、専門的な仕事を続けてきた。それから、自身の文字学を一般読者に提供するために一般書として刊行することを考え、その第一号となったのが岩波新書の『漢字』(1970年)である。そして、『詩経』(1970年)、『金文の世界』(1971年)、『甲骨文の世界』(1972年)、『孔子伝』(1972年)、『漢字の世界』(1976年)、『中国の古代文学』(1976年)、『漢字百話』(1978年)など、しばらくそのような著作を試みた。が、それまで字書を編集する機会はなかった。白川73歳の時、かねてより意図していた字源字書の編纂(『字統』)、その和訓による国字化の過程の追迹(『字訓』)、さらには従来の辞書において、なお達成されていない辞書のあるべき姿を模索するということ(『字通』)が、白川の課題としてまだ残されていた。つまり、これら字書三部作を執筆、完成することが白川の宿願であった。退職後、直ちに執筆にかかり、1年で『字統』を書き、また1年で『字訓』を書いた。そして最後に漢字の形・音・義の関係をも統説する『字通』を書いたが、この書は分量も多く、種々検討を要することもあって、11年半を要した。白川は、「ほぼ予定した期間内にこの三部作を刊了しえたことは、天佑に近いことであった。念ずれば花開くというが、私も仕事をするときには、祈る気持ではじめる。この三部作も、私の保護霊が見守ってくれていた結果であるかも知れない。」と語っているが、その言葉は白川の没後、長女の津崎史がまとめた『桂東雑記』(けいとうざっき)の5冊目の「字書三部作について」に綴られている[40][66][68][69]
字源からの展開
」の甲骨文(鳥の形でと同じ形[70])字源の書である『字統』を最初に作った理由について、「字源が見えるならば、漢字の世界が見えてくるはずである。従来、黒いかたまりのように見られていた漢字の一字一字が、本来の生気を得て蘇ってくるであろう。漢字は記号の世界から、象徴の世界にもどって、その生新な息吹きを回復するであろう。」と述べている。また、「字源の学は、字源の学だけに終わるものではない。原初の文字には原初の観念が含まれている。神話的な思惟をも含めて、はじめて生まれた文字の形象は、古代的な思惟そのものである。」といい、例として、「風」の多義性がその古代的な思惟からの展開によるものと説いている[1][40][29]。風は、もと鳳の形に書かれ、鳥形の神であった。四方にそれぞれ方域を司る方神が居り、その方神の神意を承けて、これをその地域の風行し伝達するものが鳳、すなわち風神であった。風土風俗のように一般的なものより、人の風貌・風気に至るまで、すべてはこの方神の使者たる風神のなるところであった。風の多義性は、風という字が成立した当時の、風のもつ古代的な観念に内包するものとして、そこから展開してくる。そして、このことは原初に成立した文字の多くについて、いうことができるという[29]
『字統』から『字訓』へ
当用漢字表の施行によって漢字はその字形や用義法の上に著しい制約が加えられ、国語が危機的な状況にあった。このような中で白川は所見を述べておく必要を感じ、『漢字』を刊行した。『字統』はそのような作業の一つの収束をなすものであった。


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