字通
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その体系化された漢字の原義は、中国古代の文化・歴史・思想等の厖大な領域の研究の優れた道具となり、それによって中国古代学研究全体が大きく前進したのである[40][41]

梅原猛は、「白川氏はほとんどすべての漢字を神の世界との関係で解釈するのである。このような漢字の大胆にして、しかも首尾一貫した論理性をもつ解釈をした学者は、世界にも白川氏を除いては存在しないであろう。私はそれをニーチェの業績に比したいと思う。(中略)ニーチェによってギリシャ世界の解釈は一変したわけであるが、白川氏は中国世界の解釈を一変させたのである。」と評している[42]
古代研究と文字学

白川ははじめ漠然と日本の古代を考えたいと思っていた。そして、古代の歌集である『万葉集』に惹かれ、これと中国の『詩経』との比較文学的な研究は興味深い課題であると考えた。当時の日本の古典研究では、柳田國男折口信夫民俗学的な研究が魅力的で、その民俗学の方法はすぐれていると思った。だが、どうにも対象に密着しすぎており、外からの視点に乏しいと感じ、このような観点から白川の研究は中国の古代を志向したのである[43]
中国の古代研究
日本の文化の形成は外からの大きな刺激と影響によるものであることは明らかであり、日本の古代を考えるには東アジア的な世界からの視点が必要で、そのためには中国の古代の社会と文化、その歴史的展開というものを詳しく知らなければならないと考えた。そこで、清代考証学の成果を出発点として、その代表的な著述である王念孫の『経義述聞』(けいぎじゅつぶん)と段玉裁の『説文解字注』とを読み始めた。それらは考証学的、訓詁学的研究としては殆んどその限界を極めたといえるほどのものであったが、本質的な点で白川に満足を与えるものではなかった。それは、分析する科学的な立場が自覚されていないという方法の問題であるが、一には資料の問題でもあった[43][44][45]
甲骨文・金文との出会い
そこへ日本に亡命中の郭沫若が、昭和8年(1933年)に『卜辞通纂』(ぼくじつうさん)、昭和10年(1935年)に『両周金文辞大系考釈』(りょうしゅうきんぶんじたいけいこうしゃく)を刊行した。白川は、「この両書の出現は、私にとって大きな驚きであり、また喜びであった。この未知の資料が、やがて私に新しい模索の道を与えてくれるであろうという予感が、私を勇気づけた。」との感想を述べている。卜辞とは甲骨文のことで、金文よりも古く、古代王朝形成期のものであり、清朝の学者も参照していない最古の漢字の字形を示す資料である。清朝考証学を学びならがも新たな方法論を探って甲骨文・金文に出会ったのである。早速白川の研究は殷周時代に遡ることになったが、「郭氏の考釈はなお簡略であり、その十分な解読と研究には、容易ならぬものがあるように思われた。」と、白川は郭の研究に満足せず、こうして以後50年間の文字との縁が生まれたのである[43][44][45]
漢字の背景
文字の初形を伝える甲骨文を用いた文字学はどうあるべきか。それには甲骨文を生み出した古代王朝の生活習慣を民俗学的に可能な限り把握する努力をしなければならないと白川はいう。そして、文字の研究を通して中国古代社会の構造を明らかにし、漢字の背後にある闇に包まれていた中国古代社会の宗教性に満ちた実態を生き生きと現出したのである。例えば、「男」は田と力(の形)とを組み合せた形で、田畑を耕すことを表し、昔は農地の管理者を意味した。また「加」は力とさい)を組み合せた形で、祝詞によって農具を祓い清めて収穫量の増加を祈る儀礼(加の儀礼)を意味する。農耕の用具は、休閉期にすべて社の神庫に収めておき、その出し入れのときに厳重に祓いの儀式をした。それは秋の害虫をなす蠱が器具に付着しているのを防ぐためである。それで加の儀礼のときにはを用い、その鼓声をもって蠱を祓った。それが嘉の字である。出生のときに嘉・不嘉という語を用いるように、力は新しい生への呪力を象徴するものであった。これは一例にすぎないが、中国古代社会において、文学はもちろんのこと、思想制度風俗もすべてが存在していたのである[46][47][48]
さい
「吉」の甲骨文(を組み合せた形。士は小さなの刃部を下に向けた形。鉞は邪悪なものを追い払う力を持つとされたので、「吉」は、祝詞の呪能を守ることを意味する[49][50]」(エツ)の篆文の蓋を少し開いて、中の祝詞の書を見る形[51][52])白川文字学のポイントはさい)の提唱(#さいの提唱を参照)にある。古代人は、多くの時間とエネルギーを「邪気」を祓う呪術のために消費していた。白川の説はそこから始まる[53][54]。古代中国における戦いはまず呪術による攻防として行われ、その呪術的な戦いは言葉によって展開した。そして、その言葉のもつ呪的な機能を定着し、永久化するために文字が作られた。呪術の攻撃防禦は、文字の呪能を託された祝詞の器のに対して加えられる。よって、には様々な武具が防禦のために用意された。を加えた「吉」(呪能を守ること。詰めるが原義)、を加えた「古」(呪能を長い間保持すること)、「古」をさらに厳重に守るために外囲を加えた「固」(呪能を守り固めること)などはその祝詞の呪能を保全するための防禦的方法である。一方、の防禦を攻撃して破るためにはを汚す文字が用いられる。「舎」(すてる)と「害」(そこなう)は、いずれも長い刃をもってを突き通す形であり、そのような方法で呪能は失われると考えられた。また、「沓」(けがす)は、蓋が少し開いた(エツ))に水をかけて祝詞を汚すことで、これも呪能を奪う方法であった。『説文解字』以来の学者たちの誤解のもとは、このの単なる象形と解し、文字映像におけるその象徴的意味を把握しえなかった点にある。よって、この基本形であるの系列に属する数十の基本字と、またその関連字とはすべて解釈を改めなくてはならないのである[54][55][56][57][58][59]
書写の効力
白川はトレーシングペーパーで甲骨文の書き写しをした。「カメラやコピーではいけない。甲骨文にトレーシングペーパーを載せ、上からなぞっていくことに意味がある。手で覚え、肉体化されたものは、いわば未分の全体を含む。手で写して新しく得た資料は、すでにある資料と感じあい、重畳し、互いに意味づけをしてゆく。そういう過程のなかで、私が写しつづけた文字は、皆自らの素性を明らかにしてきた。(趣意)」と、トレーシングペーパーでなぞるうちに古代人がどのような思いで甲骨文を書いたかがわかったという[60]
文字学の歩み
「古代文字の研究は、まず甲骨文・金文の研究から出発しなければならない。しかし、説文学の従来の成果についても無視すべきではない。多くの先学の所説にも耳を傾け、その是非を考え、今日の知見を以てその訂すべきを訂し、ついで自説を提示する方法をとった。」と、白川は文字学の研究姿勢をこのように述べている。そして、「許慎が『説文解字』を書いた時には、甲骨文や金文は地下に埋もれていたが、それであれだけの体系を立てたというのは、やはり偉大であったと思う。もし許慎が今生きておれば、おそらく僕と同じ仕事をして、同じ結論に達したと思う。(趣意)」と、自らの研究成果を自負している[61][62]
字書三部作

『字統』(字源辞典)・『字訓』(古語辞典)・『字通』(漢和辞典)の三書を字書三部作と称す。3冊で約4,000ページに及ぶこの三部作は、白川文字学の集大成とされる[63]

石牟礼道子は、「古代中国は殷帝国の甲骨文・金文を、東アジアに生まれた始源の文化として位置づけられ体系化され、ヨーロッパとはあきらかに異なる文化の位相を、現代の退化しつつある東洋と日本に示された。


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