字通
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(趣意)」と述べている[29][30][31]
犬の意味
古代中国では、は非常に嗅覚が鋭いために呪力をもつ大切な動物とされ、生贄として特に貴いものとされた。「」を要素とする字が数多くあるが、日本ではこのような「犬」のもつ意味を理解しないまま「大」に変更してしまい、そのため「戻」「器」「臭」「類」などは、文字としての一貫した体系性を失ってしまったのである。例えば「戻」は旧字では「戸」と「犬」を合わせた「戾」であった。「戸」は家の出入り口のこと。家の出入り口の下に生贄の「犬」を埋めて、地中の悪霊を祓う字が「戾」である(悪霊の入ることを拒否することから「もどる、いたる」の意味に用いる)。「大」は手足を広げて立つ人の正面形を表す文字で、「犬」の右上の点は犬の特徴である耳を表し、その点をつけることで「犬」と「人」を区別していた。

このような変更をしてしまったのが戦後の当用漢字、それを引き継いだ常用漢字である。どのような議論を経てこのような文字の変更が行われたのか、白川は国に問い合わせたが、「当時の資料は何も残っていないので分からない。」というのが国の返事であった[32][33]
遊字論
「遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。」の書き出しで知られる「遊字論」において、白川は常用漢字の堕落を解説している(「神の顕現」より一部分を抜粋)。遊とは動くことである。常には動かざるものが動くときに、はじめて遊は意味的な行為となる。動かざるのものは神である。神隠るというように、神は常には隠れたるものである。それは尋ねることによって、はじめて所在の知られるものであった。神を尋ね求めることを、「左右してこれを求む」という。
は左手にの形をした呪具をもち、は右手に祝詞を収める器の形である(さい)をもつ。左右の字をたてに重ねると、となる。神が隠れ住むとき、その隠れ蓑にあたるものが、呪具の工であった。隠れるときにも尋ねるときにも、その呪具が必要であった。隠の本字は隱である。隠れるとは、神が呪具の工によって「み身を隠したまう」形である。常用漢字表の制定者は、この神隱る神の姿から、隱身の呪具である工を奪うて顧みることがない。神はうつつなくもその現身(うつしみ)をあらわして、羞じらう姿を露呈する。これは字遊びである。字遊びは、かつては神聖な神の、自己顕現の方法であった。いまや神と人とは、その位置をかえている。現代の文明における遊びのように、それは堕落し果てた虚妄の遊びである[34]
文字解釈例」の甲骨文(工具の形。呪具(呪術の道具)としても使われた。「」はを持って神の所在をたずねる字である[35]

本書の文字解釈は経典の伝統的訓詁から出発し、青銅器銘文の出典、典故を得て、経典の訓詁を新しく読み直している。しかし、訓詁における思惟の形式自体は崩されることなく説解が行われている[36]。以下、本書の文字解釈の例(一部分を抜粋)を記す。

口(コウ・ク・くち)、象形の形。『説文』二上に「人の言食する所以なり」という。卜文・金文にみえる字形のうち、口耳の口とみるべきものはほとんどなく、おおむね祝?(しゅくとう)・盟誓を収める器の形である(さい)の形に作る。従来の説文学において、口耳の口に従うと解するために、字形の解釈を誤るものは極めて多く、(後略)[15]


工(コウ・ク・たくみ)、象形、工具の形。『説文』五上に「巧飾なり」と訓し、人が規(きく)をもつ形で、と同意であるとするが、巫は呪具としての工をもつ形であるから、巫とは関係がない。(後略)[15]


左(サ・ひだり・たすける)、会意、ナ(さ)とに従う。ナ(さ)は左の初文で、左手の形。『説文』五上に「手相左助するなり」という。左の手に工をもつ形が左。(後略)[37]


尋(ジン・たずねる・つぐ・ひろ)、会意、に従う。左と右の両字を上下に組み合わせた形。左右は神を祀るときの動作を示す字で、(中略)左右の手でたどりながら、神の所在を尋ねることを尋という。(後略)[38]


右(ユウ(イウ)・ウ・みぎ・たすける)、会意、又と口とに従う。又は右手の形。口は(さい)で、祝?を収める器の形。(中略)『段注』に「又なる者は手なり。手もて足らず、口を以て之を助くるなり」と解する。左右の字の原義が、祝?・呪儀に関するものであることは、従来全く理解されていないことであった。(後略)[39]

白川文字学甲骨文金文(『小臣艅犠尊銘』)

白川の著作には漢字の分析が多く、白川は漢字学者とさえいわれるが、白川の学問の目的は、「東洋的なものの源流を求める」ということに発しており、その学問体系全体から見れば、漢字学・文字学はその一部に過ぎない。

白川は本質的には中国古代文学の研究者である。その研究上、文章の単位である漢字をまず研究し、その成果として漢字の原義を明らかにした。漢字の個々の原義研究においては多くの人々のすぐれた各個研究があるが、それは部分研究であり、一般性を持たない。白川学の特長は、体系性にある。その体系化された漢字の原義は、中国古代の文化・歴史・思想等の厖大な領域の研究の優れた道具となり、それによって中国古代学研究全体が大きく前進したのである[40][41]

梅原猛は、「白川氏はほとんどすべての漢字を神の世界との関係で解釈するのである。このような漢字の大胆にして、しかも首尾一貫した論理性をもつ解釈をした学者は、世界にも白川氏を除いては存在しないであろう。私はそれをニーチェの業績に比したいと思う。(中略)ニーチェによってギリシャ世界の解釈は一変したわけであるが、白川氏は中国世界の解釈を一変させたのである。」と評している[42]
古代研究と文字学

白川ははじめ漠然と日本の古代を考えたいと思っていた。そして、古代の歌集である『万葉集』に惹かれ、これと中国の『詩経』との比較文学的な研究は興味深い課題であると考えた。当時の日本の古典研究では、柳田國男折口信夫民俗学的な研究が魅力的で、その民俗学の方法はすぐれていると思った。だが、どうにも対象に密着しすぎており、外からの視点に乏しいと感じ、このような観点から白川の研究は中国の古代を志向したのである[43]
中国の古代研究
日本の文化の形成は外からの大きな刺激と影響によるものであることは明らかであり、日本の古代を考えるには東アジア的な世界からの視点が必要で、そのためには中国の古代の社会と文化、その歴史的展開というものを詳しく知らなければならないと考えた。そこで、清代考証学の成果を出発点として、その代表的な著述である王念孫の『経義述聞』(けいぎじゅつぶん)と段玉裁の『説文解字注』とを読み始めた。それらは考証学的、訓詁学的研究としては殆んどその限界を極めたといえるほどのものであったが、本質的な点で白川に満足を与えるものではなかった。それは、分析する科学的な立場が自覚されていないという方法の問題であるが、一には資料の問題でもあった[43][44][45]
甲骨文・金文との出会い
そこへ日本に亡命中の郭沫若が、昭和8年(1933年)に『卜辞通纂』(ぼくじつうさん)、昭和10年(1935年)に『両周金文辞大系考釈』(りょうしゅうきんぶんじたいけいこうしゃく)を刊行した。白川は、「この両書の出現は、私にとって大きな驚きであり、また喜びであった。この未知の資料が、やがて私に新しい模索の道を与えてくれるであろうという予感が、私を勇気づけた。」との感想を述べている。卜辞とは甲骨文のことで、金文よりも古く、古代王朝形成期のものであり、清朝の学者も参照していない最古の漢字の字形を示す資料である。清朝考証学を学びならがも新たな方法論を探って甲骨文・金文に出会ったのである。早速白川の研究は殷周時代に遡ることになったが、「郭氏の考釈はなお簡略であり、その十分な解読と研究には、容易ならぬものがあるように思われた。」と、白川は郭の研究に満足せず、こうして以後50年間の文字との縁が生まれたのである[43][44][45]
漢字の背景
文字の初形を伝える甲骨文を用いた文字学はどうあるべきか。それには甲骨文を生み出した古代王朝の生活習慣を民俗学的に可能な限り把握する努力をしなければならないと白川はいう。そして、文字の研究を通して中国古代社会の構造を明らかにし、漢字の背後にある闇に包まれていた中国古代社会の宗教性に満ちた実態を生き生きと現出したのである。例えば、「男」は田と力(の形)とを組み合せた形で、田畑を耕すことを表し、昔は農地の管理者を意味した。また「加」は力とさい)を組み合せた形で、祝詞によって農具を祓い清めて収穫量の増加を祈る儀礼(加の儀礼)を意味する。


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