孔融
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一時逼塞するが、後漢の最混乱期に北海国となり、六年間これを勤め、劉備に上表され[3]青州刺史として黄巾の乱で荒れ果てた山東地域を支えた。王修らを推挙し、また儒学の教布に努め、大学者の鄭玄に対し子孫のとるべき礼をとり、彼のために(県の一つ下の行政単位)を設けて鄭公郷と命名した。これらのことは前述の『後漢書』「孔融伝」の他、『魏志』崔?伝が引く司馬彪の『続漢書』に記載されている。しかし同じ司馬彪の手による『九州春秋』では、「政務は形式的で現実味に欠けるところがあり、法網を上手く張り巡らしたが実行力に欠けた」「風変わりな者を好み、鄭玄のような学のある人物は表向き礼遇したが、共に国事を議論することはなかった」などと、両極端な評価を受けている。

徐州刺史の陶謙が亡くなるとその遺託に沿い、後任を引き受けるよう劉備を説得した。

近隣で袁紹が急速に勢力を拡大すると、袁紹の長子袁譚に攻められ、に逃亡した。その後も朝廷に仕え、将作大匠少府・太中大夫を歴任した。朝議の質疑応答では、いつも中心になって発言したという。孔子の子孫という立場、さらには類いまれなる文才で文人サロンの中心的存在となった。後に「建安の七子」の一人に挙げられている。

直言居士な孔融は、時の権力者であった曹操と、事ある毎に対立していた。孔融は曹操の施政の中で納得いかないことがあると、前例に喩えて厳しく詰った。楊彪の処刑を諫止した時のような正論も中にはあったが、当てつけがましい屁理屈が多く、曹操は日頃から孔融を嫌悪していた。曹操が南方への遠征を目前に控えた建安13年(208年)、孫権の使者に曹操を誹謗中傷する発言をしたという罪で逮捕され、妻子共々処刑された。齢56。このために孔融の子孫は途絶えた。聖人孔子の子孫を殺害したことは、後々まで曹操が非難される理由の一つとなった。

孔融と親しくしていた脂習がその処刑を聞き、駆けつけて屍を撫で「文挙殿は私を見捨てて先に死んでしまった。私も生きていて何としよう」と言った。これを聞いた曹操は激怒して脂習を捕えたが、後に赦令によって釈放した。

その後、曹丕(文帝)は深く孔融の詩文を好み、いつも嘆息して「揚雄班固にも劣らぬ」と言った。天下に寡って、孔融の文章を届け出るものがあれば、その都度黄金や絹を褒美にやった。孔融は詩・頌・碑文・議論文・六言詩・対策文(天子の試問に答える文)・上奏・檄文・教令(下々に出す布告)など、全て二十五篇を著した。

また、論には「昔、諫大夫の鄭昌は『山に猛獣あれば、黎?(アカザと、豆の葉)これがためにとられず』(『漢書』の「国に忠臣されば悪人は出ない」の意)といった。されば、の孔父が顔色を引き締めれば、君を弑しようなどといった謀略は、入り込む隙がなかった。晏嬰が朝廷に立てば、田氏が国を盗む野望も断念せざるを得なかった。同様に、孔文挙の高潔な志と一本気な振る舞いは、人々の正義感を奮い立たせ、梟雄の野心を阻害するだけの力があった。そのため曹操も生きているうちに漢の天下を奪うことはできず、息子の代(文帝)で初めて漢に代わることができたのである。そもそも真っすぐな気性の人は、当たって砕けるのが本望。ただ丸く治まるよう腰を屈めて生きることはできないものである。孔文挙こそは、純粋な白玉の如く、峻烈なこと秋霜の如き人だと言えよう」と記されている。
その他

『後漢書』に「孔融伝」が立っている他に、『三国志』にも彼についての記述がある。なお『三国志』には、孔融以外の孔子の子孫としては、魏の大鴻臚孔乂・子の西晋の平東将軍孔恂(ともに「倉慈伝」注)、同じく魏の司隷校尉孔羨(孔子直系、宗聖侯。「杜畿伝 附 杜恕伝」注)らの名が記されている。

風変わりな人物を好み、自身も後に流行する清談に繋がるような、奇抜な発言が多かった。同じ直言居士として名声のあった禰衡を高く評価し、彼との議論の中で、子と親は水と水がめのようなもので、生まれる前において仮にその中に入っているに過ぎないと主張し、また飢饉にあった時、父親がくだらない人間なら、他の人物を助けて生かせというような、当時の儒教の主流的考えから外れた意見も述べている。『後漢書』には「孔融は人の善行を聞けばわが事のように喜び、人の意見に採るべき点があれば必ず布衍(ふえん)して完成させる。面と向かって相手の短所を指摘するが、蔭ではその長所を称賛する。賢士を推薦し、多くの者を出世させた。善い人を知っていて薦めずにいることを、自分の過ちのように思っている」とある。

小説『三国志演義』にも登場し、正史と同様、事あるごとに曹操を厳しく批判している。
孔融の子

孔融には二人の子がいた。孔融が処刑されたとき、9歳の男子と7歳の女子が幼年の故に[4]、目こぼしされ他家に預けられていた。二人の子供が碁を打っている最中に父が逮捕されたが、二人ともびくともしなかった。左右の者が「お父さまが縛られたというのに、どうして平気でいるのかね」と聞いたところ、「巣が壊されて、卵だけ割れずに残ることがあるものか(自分も覚悟している)」と答えた。また、預けられた家の主人が肉のスープをくれた。兄が、がつがつとそれを飲んだのを見て、妹は「今度の災難、私たちも長くは生きられないのに、よくも呑気に肉の味がわかるわね(肉の味云々は孔子が古代音楽を聞いて三ヵ月間肉の味がわからなかった故事を含む)」と言った。それを聞いた兄はわっと泣き出して飲むのをやめたという。これを人伝いに聞いた曹操はとうとう二人を殺した。捕り手が来た時、妹は兄に「もし死んでも物がわかるなら、父さま母さまに会えるわね。嬉しいじゃない」といった。子らは自分から首を差し伸べて斬られた。それを見て、痛ましがらぬ者はいなかったという[5]
配下

王子法


王修

左丞祖

是儀

孫邵

太史慈


鄭益

?原

彭?

劉義遜

劉孔慈


演義のみ


宗宝

武安国

脚注^ [1] 後漢書 孝献帝紀 第九「八月丁未,光禄勲?慮為御史大夫。壬子,曹操殺太中大夫孔融,夷其族」より。西暦換算は ⇒兩千年中西暦轉換にて。
^晋書』羊?伝
^ 三国志魏書崔?伝注引続漢書
^ 『魏志』崔?伝が引く『続漢書』では、ともに8歳の子とだけ記されている。
^後漢書』孔融伝

孔融を題材とした作品と参考文献

陳舜臣『中国畸人伝』(中公文庫、2005年)

吉川幸次郎『三国志実録』(ちくま学芸文庫、1997年)


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